先日、日課の散歩の途中に、麻布台に7月10日にオープンしたばかりの「FAMIMA PARK AZABUDAI」に立ち寄ってみました。


ファミリーマートが創立45周年を機に立ち上げた「次のコンビニ」を掲げる初の旗艦店です。NIGO®さんがクリエイティブ・ディレクターを務めていて、次世代感の塊のようなお店となっています。

僕の実家はコンビニ経営をしているような実家だったので、どうしても次のコンビニには興味を持ってしまいます。

そして、実際に現地に足を運んでみると、お店の内装も、商品の陳列も、いろいろなものがほんとうに目新しかったです。

ーーー

でも、僕がいちばん「おっ!」と思ったのは、そのどれでもありませんでした。

むしろ、レジに、人間が立っていたこと。

「次世代のコンビニ」なのだから、おしゃれなセルフレジがズラッと並んでいてもまったくおかしくないのに、従来のファミマとはまったく異なる新しいユニフォームを着た店員さんが、きちんとレジに立っている。

なぜだか、それがいちばん新鮮に見えた。いちばん未来的に見えたと言ってもいいかもしれません。

ただ、このときはまだ、自分でもその理由がよくわかっていませんでした。

ーーー

で、家に帰ってきてから、公式のニュースリリースを読んでみて、少し驚きました。

どうやらこれは、偶然の印象ではなさそうだったんですよね。むしろ意図的に仕掛けられていたものらしいのです。

リリースの「見所」の中では、キオスク型のレジと並んで、ユニフォームそのものが写真付きで紹介されていました。

商品案内を行う専門スタッフの配置も明記されていて、極めつけは「店舗の外観からストアスタッフの佇まいまで、訪れるたびにわくわくする店舗体験を提供し」という一文です。

店員さんの佇まいが、建築と同列に店舗体験の一部として最初から設計されている。

コンビニは、どのチェーンであっても、生産性やコスパの権化みたいな状況にも関わらず、その初の次世代型の旗艦店では、あえて人間の姿をいちばん目立つところに置いてみせた、その逆説ですよね。

ーーー

だとしたら、僕らはこれから、どんな場面にAIではなく、わざわざ人間を配置するようになるのか。

この問いを考えるときに、いつも思い出す言葉があります。

以前、高城剛さんの有料メルマガを読んでいたときに出会った一節です。

「僕は、情報の整理と分析、そして生産性の補助にはAIを徹底的に使いますが、人間との摩擦の解消にAIを介在させることはしていません。なぜなら、摩擦の解消プロセスそのものが、信頼関係を構築し、時には創造性が高まる行為だからです。」


これを読んだとき、本当に至言だなあと思いました。

AIを使う場面と使わない場面の線引きが、「重要かどうか」でも「創造的かどうか」でもなく、人間との摩擦を解消する場面には使わない、というその一線なんですよね。

でも、正直に白状してしまえば、僕らがいちばんAIに任せてしまいたいのは、まさにその摩擦であり、もっとあけすけに言ってしまえば、クレーム対応の部分じゃないですか。

人間同士の摩擦って、本当にコストがかかりますからね。

ーーー

これは、お金や時間だけの話ではない。

怒っている人の話を聞くのはつらいし、謝罪文を書くのも、断りの連絡を入れるのも、相手を傷つけずに「否」を伝えるのも、心がものすごくすり減ります。

金銭的にも心的にも、いちばん高くつくような部分だからこそ、AIに丸ごと渡してしまいたくなる。

そして皮肉なことに、AIは、それを驚くほど上手にこなしてくれる存在でもあるわけですよね。

ここにこそ、なんとも悩ましい逆説があるように思います。

AI時代に生きる現代人のジレンマの核心部分と言っても過言ではない。

僕らがもっともAIに任せたい部分こそが、まさにAIが一番得意なジャンルでもあり、とはいえ実は人間関係の中で、もっとも大切なものを生み出していた部分が摩擦であって、自分で担わなければいけないのかもしれないというジレンマです。

ーーー

たとえば、AIが生成した完璧な謝罪文があるとして。

そこには、失礼な表現はひとつもないわけです。こちらの気持ちにも十分に配慮されている。そして問題としても、各方面に利益衡量がなされて、ほんとうに美しいほどにキレイに解決している。

でも、それがAIの文章だなと感じた瞬間に、こちらの心はスッと離れていきます。

「あっ、AIで返してくるタイプね」と。

問題は見事に解決しているのに、関係は一切修復されていない。きっと、先日の深津さんのnoteで僕が感じた違和感も、まさにこれだったんだろうなあと。

参照:「自分ひとりで済むことって、どれくらいあるんだろう。」

ーーー

この妙な感覚の正体は、AIを使ったことそのものへの反発ではないと思うのです。

自分とのあいだに生まれそうな面倒ごとを、相手自身が最初から引き受けてくれなかった。そのことへの、静かな失望なのだと思います。

逆に言えば、下手くそでも自分の言葉で返事をするというのは、「イヤイヤながらでも、あなたの席をまだここに残しておきますよ」という明確な意思表示なんですよね。

「あなたの意見には到底同意できないし、正直、クソ面倒だとも思っている。それでも関係の外へ追い出さずに、自分の時間と感情を使って、返事を書いています」と。

その不格好さのなかにこそ、それでもこの関係を続けたいと思っていることの、何よりの証拠があるわけです。

これはほんとうに言葉にすると変な話なんですが、AI時代だからこそ、余計にそうなってしまうんですよね。

ーーー

人が記憶するのは「問題が起きたこと」だけではなく、問題の起きた自分に、その会社がどう向き合ってくれたのか、むしろそちらのほうを、いつまでも覚えているものです。

そして、そんな話こそ誰かにしたくなる。

「あそこで買い物をしたけれど、何も問題が起きませんでした」なんていう話は、誰もしません。何も起きない凪は、ほんとうにただの凪なんです。

でも「あのとき、こんなトラブルがあって、店員さんがこう解決してくれてね」という話は、何年経っても、語られ続けます。その「ワオ!」こそが口コミになる。

避けられずに起きてしまった問題にどう向き合うかが、関係を壊しもすれば、以前より強くもする、ということなのだと思います。

摩擦の解消は、ただのコストではない。そこから人と人との信頼が生まれ、物語が生まれてくる水源のような場所なわけです。

ーーー

とはいえ、摩擦という言葉には、どうしても悪い印象がつきまとうと思います。

摩擦は減らすべきものだし、火種は小さいうちに消すべきものだと。

その意味で言えば、AIというのは、そんな人間が作り出した人類史上最高性能の火消し装置とも言える。

どんな相手にも極力刺激を与えず、怒りを受け止めて、否定を柔らかく包み込み、問題を最短距離で収束させてくれるわけですから。

だからこそ、僕らはソレに全力で頼りたくなる。

でも、ときには、誰かと一緒に囲んだそんな火が、思いもよらない形で「焚き火」の記憶のようになることもあるわけです。

そこから、それまで存在しなかった関係性や商品、思いもよらない発想が生まれてくることだってあるんだと思います。

ーーー

人間はどこまでいっても人間のことが大好きで、どれだけAIが発達しても、人間は人間がつくるものにしか興味を持たない、という話は最近よく語られます。

僕も本当にそのとおりだと思っています。

でも、同時に最近よく思うのですが、それとまったく同じ理屈で、人間は人間のことが嫌いでもあるはずなのです。

人間は人間を大好きだから、物語を求めるのと同様に、人間は人間のことを大嫌いだからこそ、そこに物語が生まれてくる。

AIは、そうやってお互いに嫌いだったからこそ生まれた問題を一緒にくぐり抜けた、そんな記憶までをつくることは決してできない。

そして気づいたときには、AIを使えば、たしかにすべてが快適なんだけれど、誰とも何も起きなかった、ひどく退屈な人生になってしまいかねないなと。

ーーー

だからこそ最近あらためて思うのは、ちゃんとぶつかること、ちゃんと喧嘩することの大切さ、です。

いまは、関係を断ち切るのが本当にカンタンな時代になったなと思います。

イヤだなと思ったら、すぐにブロックすればいい。それ以降、関係を持たないことも、指先ひとつでできてしまいます。

そしてそれ自体は、とっても良いことでもあると思うのです。逃げ場のなかった時代に比べたら、ずっと健全だと言える。

僕自身も、ブロック機能に日々支えられている現代人のひとりですから、ここで偉そうなことは何も言えません。

ーーー

でも、SNSで僕らが気軽にブロックできるのは、それがSNSの作法であり、文化だからなんですよね。あの場では、あれでいい。

同じことをリアルの空間で、たとえば学校のような場でやってしまったら、きっとそうはならないはずです。

だとしたら、カンタンには断ち切らない関係性を良しとする空間を、どこかに場として抱えておくこと、文化として残しておくことって、実は今、ものすごく大事なことだよなあと思うのです。

というより、それこそが、日常とは別の価値観が流れる場所、別世としての「文化」の役割なのだろうなと。

ブロックで終えてしまわない文化です。摩擦や衝突を、お互いに大切なものだと思い合えて、なんならそういう状況になったときこそ、キタキタ!って、ワクワクできること。

そういう場を、できることなら僕は、これからもつくっていきたいなと思ってしまいます。

ーーー

そしてこの話は、やっぱり、最近のムーミン谷の話につながっていく。

ムーミン谷は、気難しい人も、怒りっぽい人も、孤独な人も、いつの間にかふらっといなくなってしまう人もいる。

それでも、帰ってきたときの席がある。意見が食い違って、摩擦が起きても、すぐに関係の外へ追い出されたりはしないわけです。

あの谷の広さというか深さこそが、それぞれの物語を育てる土壌になっているのだろうなと思います。

ーーー

もちろん、どれだけそういう場を頑張ってつくってみたところで、サラッと出ていく人はいます。それは、それでいい。

大事なのは、その場を、それでも淡々と続けていくことなんだろうなと。

相手がサラッと出ていってしまったからといって、売り言葉に買い言葉のようにして、こちら側もカンタンに店じまいをしてしまわないこと。

開けたままにしておけば、もしかしたら、またふらっとやってきてくれるかもしれないわけですから。

お互いに頭を冷やせば、時間が解決してくれるかもしれない。その時間のほうを、信じ合えるような関係性を大切にしていきたい。

ーーー

AIによって、僕らはこれから、あらゆる問題を「起きなかったこと」のように処理できるようになっていきます。

そして何度でも書いてしまいますが、それはほんとうに生産性高く、基本的には良いことです。

でも、何も起きない凪をつくることよりも、何かが起きたあとも、相手の席を片づけないでおくことのほうが、きっとずっとむずかしいし、むずかしいゆえに、これからの時代には圧倒的に「希少性」も高くなっていく。

ことなかれ主義ではなく、起きたときには起きたときに巡ってきたその運命を受け入れて、衝突や摩擦も、ほんとうはそんなに怖くない、大丈夫、安心してと言い合えるような関係性を大事にしたい。

そして、その摩擦に立ち向かう勇気こそが循環するような場所にしていきたい。

AIがあらゆる火種をカンタンに消せてしまう時代だからこそ、摩擦から生まれる谷、つまりコミュニティの豊かさをこれからも大切に育んでいきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。