最近、「余白」という言葉の意味をずっと考えています。

きっかけは、Wasei Salonの「今週の問い」の企画でした。

今週の問いの内容は「あなたが大切にしている余白の時間は?」というもので、メンバーがそれぞれに、大切にしている日々の余白時間に語られていました。

で、どれも良い習慣だなあと思いながら眺めながら、ふと思ったのは「じゃあ、余白の対義語って一体何なんだろう?」と。

そして、最近なんだかやたらと「余白」という言葉を目にするようになった気もする。

これは地味にAIの影響がかなり大きいと個人的には思っています。

AIに「人間にとって大切なものは何か」みたいな質問を問えば、本当にテンプレートのようにして、かなり高い確率で「余白」という単語が返ってくる。

結果として、日常的にAIに触れている人たちの中で「余白」という単語が少しずつ人間側のアイデンティティとして刷り込まれてきているのではないか、そんなふうに勘ぐっています。

AIの影響を一番受けていなさそうな言葉ほど、実は一番AIから影響を受けている言葉であり、それが「余白」という言葉が現代でプチバズワードしている理由なのかもしれない、と。

最近は本当にこういうAIによる「裏トレンド」みたいなものが、増えてきたなと思います。

みんなAIから離れて自分だけは誠実でありたいと見せるからこそ、なおかつそれをAIに相談しているからこそ、AIが頻繁に生成してくる「ナチュラルワード」が流行化する現象あるよなあと。

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さて、それはさておき、余白の対義語の話です。

まず、余白というからには、何かその他に主たる部分があって、その「余り」としての「白」があるはず。

だったら余白の対義語は、本文なのか、本体なのか、主題なのか。絵で言えば、描かれた部分が主たる部分にあたるのか。

でも、そうやって考え始めるほど、だんだんわからなくなってくるなあと。

はて、そもそも、その「主」って一体何なんだ…?ってなりますよね。

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具体的には、水墨画の余白って、果たして本当に余白なんだろうか、と。

あの白い部分は、ただ何も描かれていない「空き」ではない。

描かれていないのに、ちゃんと意味があり、水墨画全体に効果をもたらしているわけです。

むしろ墨で引かれた線のほうが、その白い部分を立ち上がらせるためのきっかけに見えてくることすらある。そんなとき、完全に、主従が逆転しているなと感じる。

そう考えると、あれは文字通りの「余った白」ではまったくない

何かを主として見たときに、その周辺にあるものを便宜上そう呼んでいるだけで、見る位置が少し変われば、主と従なんて、簡単に入れ替わってしまう。

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そして、このことを考えていたら、もうひとつ「余白」に近い言葉のことも気になってきました。

それが「余韻」です。

余白と余韻は、すごく近い界隈にあると思います。どちらも、本体そのものではない何かを指している。

でも、まったく同じではないから、2つの言葉が別々に存在するわけですよね。

じゃあ、余白と余韻は一体何が違うのか。

きっと余白はそこにあるもの、まだ埋められていないものとして、こちらの前に開かれている感じがする。

けれど、余韻は、何かが去ったあとに残るものなんだろうなあと思います。

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具体的には、一曲を聴き終わったあとに、なお身体のどこかがまだ曲に浸っている、あの感じです。

言葉を読み終えたあとに、その文章そのものよりも、読み終えたあとの情緒のほうが、自らの身体に長く残り続ける感じが余韻。

そう考えるとたぶん、余白というのは空間的な言葉で、余韻は時間的な言葉なんだと思います。

もう少し厳密に言えば、余白は自らに招き入れるものであって、余韻は逆に、自らに見送るものなのかもしれない。

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見方を変えると、余白はまだ何かが入ってこられる余地を空けておくこと。そこに何かが入り込めるように、あえて埋め尽くさないでおいておく。

一方で余韻は、もう本体は過ぎ去ったのに、なお自分の側に残ってしまうもの。「もう終わったはずなのに、まだ終わっていない」というかたちで自らに残るもの、それが余韻。

つまり、「余り」である部分は非常によく似ているけれど、そのベクトル自体が逆なんですよね。

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で、もっとおもしろいのは、両者の言葉の違い以上に、その共通点のほうだと思います。

余白も余韻も、どちらも本体そのものではない。にもかかわらず、それこそが、本体を本体として成立させている構成要素である不思議。

描かれていない白が水墨画を成立させて、鳴り止んだあとの楽器の響き、その名残りが、それまでの音楽の意味を決定してしまう。

本体ではないものが、本体を決定づけているという不思議は、考え始めると、本当によくわからなくなるし、とはいえ、よくわからないからこそ、きっと僕らは、ずっとそういうものに惹かれてきたんだろうなあとも思うのです。

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で、ここまで考えると、もう一歩先、未来のことも踏み込んで考えてみたくなりました。

ここで冒頭の「AIと人間」の違いにもつながってくる部分になります。

つまり、本当の意味での余白や余韻を残せるのは、人間だけなのではないか?ということです。

もちろん、これはAIが「大事にしろ、大切にしろ」と言ってくるテンプレワード、ナチュラルワードとしての「余白」ともまた違う。

むしろその逆で、人間が不完全で有限で、至らない存在だからこそ、余白や余韻の器になれるのではないか、という話を、ここでは今僕は主張してみたいのです。

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水墨画の余白が際立つのは、あの白い部分があるからだけではない。

そもそも、限られた掛け軸の枠、限られた構図、限られた筆致のなかで、最初から全部は描けないことが決まりきっている。確定している。

その「描けなさ」が、結果として白をただの「空白」ではなく、気配の器みたいにしているわけですよね。

似ているイメージとしては、千利休が、満開の朝顔をわざわざすべて切り落として、一輪だけを床の間にいけて、秀吉を迎え入れたというあの逸話の話とも、非常によく似ている。

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それと同じで、人間もまた有限なわけです。

時間が有限で、身体が有限で、視点が有限。

もちろん、あやつれる言葉や知識も有限であり、そもそも、命の定義自体が有限であること、です。

つまり、全部を言えないし、全部を生きられない。全部を理解できないし、全部を救えない。全部を受け止めきることなんかも到底できない。

でも、だからこそ、逆説的なんだけれども、その外側に滲むものが出てくるわけです。この逆説がめちゃくちゃ大事だなあと。

その有限性の自覚が生まれた際に初めて、言い切れなかったものが余韻になり、触れきれなかったものが余白になるということです。

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これがもしAIのように、無限に語れて、無限に補完できて、無限に管理できる存在がいたとしたら、そこには余白も余韻も生まにくくなってしまう。

というか僕らがそれを余白や余韻と捉えない、ただのAIの一時停止、中断にしか見えないわけです。

いまのAIを見ていると、まさにそこに強く引っ張られている感じがある。少なくとも見かけの上では、AIはいくらでも出力し続けることができてしまうわけですからね。

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もちろん、そんなAIが悪いと言いたいわけじゃありません。むしろ僕自身、毎日のようにAIと話しているし、その力に何度も助けられている。

でも、それでもなお思うのは、AI時代に人間に残される大事なお仕事は、情報をたくさん出すことでも、正しさを競うことでも、隙なく埋めることでもなく、お互いの有限性や至らなさを認めたうえで、目の前の相手の中に生まれてくる「余白」や「余韻」を受け止め合うことなのではないか、と。

ここが今日いちばん強く強調したいポイントです。

言葉が少し足りないこと、沈黙が生まれてしまうこと、その結果として、あとになってから、じわじわ余白や余韻がが立ち上がってくること。

そういうものを、欠陥として切り捨てずに、ちゃんと互いに受け止め合うことの意義です。

それっていうのは、ひどく効率の悪いことだとも思います。すぐには評価されにくいことでもある。だからAI以前の社会では、ひどく嫌われてしまっていた。

でも、だからこそ、そこにこそ人間のお仕事が宿るし、残るのだとも思います。

いや、「仕事」というより、もしかするとそれこそが、これからの時代の人間の「生きがい」に近づいていくのかもしれないなあとさえ思います。

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そう考えると、一番最初の問いに戻れば、余白の対義語は、本文でも、本体でもないのかもしれない。

むしろ、埋め尽くしてしまったり、言い切ってしまったり、管理しきってしまうこと。世界をこちらの理解の範囲に閉じ込めてしまうこと。

そちらのほうが、よほど余白の対義語に近い気がします。

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最近は、「余白」という言葉を、以前ほど気軽には使えなくなってしまった自分がいます。

でも、それは決して悪いことではない気がしていて、余白や余韻を、ただの美しい言葉として掲げるのではなく、人間の有限性から生まれるものとして、考えられるようになったということでもあるなあと。

これも全部AIのおかげ。

そして、AI時代に僕らがほんとうに大事にすべきなのは、その気配をうまく演出することではなく、お互いの有限性や至らなさから生まれてきてしまう余白や余韻を、丁寧に味わい、「もののあわれ」として、互いに受け止め合うことなのだろうなあと思います。

それこそが人間にしかできないことであり、これから先、そういうことのほうがますます大切になっていく時代に突入していくことは間違いなさそうです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。