少し前に、こんなことをブログに書きました。


AIは人間の代わりになるかどうかという話ではなく、共同体の中に「まだ誰かが座るかもしれない席」を、仮に見えるようにしてくれるものなのではないか、そんな内容です。

そのなかで、コミュニティラジオに「今週の一曲」のようなコーナーを置いたらどうだろう、ということも合わせて書きました。

コミュニティメンバーの誰かがSunoなどでつくった曲から一曲を選び、番組の中で流してみるという提案です。

正直なところ、書いた時点では、どこまで機能するかはまったく見えていなかったです。むしろ、当たるも八卦、当たらぬも八卦だなあと。

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そのあと、かあいさんがファーストペンギンになってくれて、それに呼応するように、ほかのメンバーも、少しずつAI楽曲を出してくれるようになりました。

で、その様子を眺めているうちに、自分でも思っていなかったくらいに感動していることに驚いたんですよね。

音楽だけは、なぜかその人がどういう気持ちでそれをつくったのか、背景にどういう文脈があるのか、こちらが勝手に読み取ってしまう。

もちろん、こちらが勝手に読み込んでいるだけなのかもしれない。それでもやはり、この読み取ってしまう感じは、これまでにはなかったことだし、なんだか圧倒的だなあと。

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動画でも、画像でも、テキストでもない。

音楽がいちばん、その人の内側を、こちらに感じさせてくる。

感覚的な比重で言えば、

音楽 >>>>> 動画 > 画像 > テキスト

くらいの差があるように感じます。

この点、テキストだと、どうしても意味が先行しがち。この表現は不自然だな、これはAIっぽいな、というまなざしが読むより先に働いてしまいますよね。

ところが音楽は、意味が固定される前に、感情や身体のほうへ先に入ってくる。

メロディやリズムや声色や間が、「誰かの気持ちの痕跡」のように聞こえてしまうから、その向こう側にいる人のことまで、勝手に想像してしまうのだと思います。

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あと、以前、昭和映画から日本的コミュニケーションの話を考えたときに、「パケット型」と「グルーミング型」の類型をご紹介しました。


パケット型は、情報や用件の直接的なやり取り。

グルーミング型は、お互いを気遣ったり、なぐさめ合ったりする、毛づくろい的なやり取り。

で、本来この国では、このふたつは一体だった、ところが現代では、この両者はきれいに分離されてしまっている、そんな話を書きました。

今回、いろんな方のAI楽曲を聴きながら気づいたのは、歌というのは、このパケット型とグルーミング型を一体にしたまま分離することなく届けられる、数少ない形式なんじゃないかということです。

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テキストだと、どうしても意味(パケット)が先に立って、そこに滲んでいたはずの情動(グルーミング)が剥がれ落ちていく。

ところが歌になると、意味と気配がまとまったまま運ばれる。

だから受け取る側も、意味だけでなく、その生成主のいまの気分や、曲の背後にいる誰かのことまで、一緒に受け取ってしまう。

つまり、テキストで書くには重すぎる。面と向かって言うには少し照れくさい。とはいえ、黙っているには惜しいこと。そういうことを、うたはちょうどよく引き受けてくれる。

受け取る側も、その手前で、身構えずに受け取れる。

これは、歌い手と聴き手の両方にとって、かなり大事なことをしている気がするのです。

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で、最初は、これはある種の「非同期・遠隔のカラオケ」のようなものかな、と考えていたんです。

同じ場所にいるわけでもないし、同じ瞬間を生きているわけでもない。それでも誰かが歌を差し出して、別の誰かがそれを受け取って、また別の誰かが歌を返す。

それがなんだかカラオケみたいだなと。素人が担うという意味でも似てる。

ただ、もう少し考えていくと、カラオケよりもっと古い感覚に近いのではないか、と思うようにもなったんです。

以前も書きましたが、小津安二郎監督や初期の山田洋次監督の作品を観ていると、宴会の場面で、誰かが自然と歌い始め、まわりが手拍子でそれを受け止める、という光景が本当によく出てきます。

あのような場面を、ただの余興のようなものだと思っていましたが、でもいま振り返ると、あれはそういうものではなかった気がします。

あの場の歌は、共同体の中で、言葉では処理しきれない感情を手渡すための手段だったんだと思うのです。

直接言葉にして話すには、生々しすぎること。説明すると、野暮になること。正面から言うと、重くなってしまうこと。

そういうものを、メロディ、つまり節に乗せて差し出す。受け取る側は、言葉による明確な応答ではなく、手拍子や合いの手で、それを受け止める。

つまり歌は、うまく表現するためのものである前に、気持ちを共同体の中で回していくためのものだったのだと思います。

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前に、寅さんの話を書いたときのことも思い出します。

寅さんは学がなくて頭のいい説明なんてまったくできない。インテリの説明を、散々に冷やかす側の存在です。

それでも観ている側は、寅さんの説明のほうにこそ、自分に届く言葉を語ってくれていると感じてしまう。

インテリの説明は、言葉で自分と相手を切り離していくわけです。まさに分かるとは、分けるということ、その象徴のように。

でも、寅さんの節混じりの語りは、聞いている人と一緒に、いつの間にか柴又の風景や、旅先の空の下へフワッと連れて行ってくれる。つまり寅さんと同化する。分離とは対局にある姿勢です。

歌も、たぶんこれと同じことをしているのだと思います。

情報を渡しているのではなく、同じ風景の中に一緒に立ってもらうようなことをしている。論理でつなぐのではなく、情景を共有することで、つながるパターンがあるということ。

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そう考えると、いまWasei Salonの中で起きている歌を共有する動きも、少し違って見えてくるなと。

これは、新しい技術による作品発表ではない。もちろん、それもあるのですが、昔の共同体の中にたしかにあった「歌で気持ちを回す文化」の、現代的な再来なのではないか。

そう見え始めてから、なんだか急に腑に落ちるところがありました。

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あと、以前カラオケについて書いたときに、ひとつ引っかかっていたことがありました。

カラオケが普及したことで、現代人に歌う機会はたしかに増えた。そして、若い子ほど、歌が死ぬほどうまい。

でも同時に、歌う場所は、カラオケやスナックに限定されてしまった。昔は宴席で自然に誰かが歌い出していたのに、いまは「歌いたくなったら、カラオケかスナックに移動しましょう」という形になってしまっている。

歌の価値そのものは変わっていないようでいて、実はカラオケ以前と以後で、歌が共同体の中で担っていた役割は、けっこう大きく変わったのではないか、そんなことを思ったんです。

いま振り返ると、今回の話はそのときの違和感に対する、ひとつの応答になっている気がします。

というのも、AI音楽をみんなで共有するという営みは、カラオケによって「箱的空間(ボックス)」に閉じ込められていた歌を、もう一度場所のしがらみから解き放って、共同体の中に戻しているように見えるからです。

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しかも、かつての宴席の歌よりも、さらに自由度が高い。

かつて歌のやり取りは、同じ場にいる人同士のあいだでしか成立しませんでしたが、いま起きていることは、遠隔でも、非同期でも成立している。

夜に誰かが生成AI楽曲をタイムラインに投稿して、翌朝、別の誰かがそれを聴く。数時間後にまた誰かが自分の歌を返す。

同じ場にいなくても、同じ時間を共にしていなくても、気持ちが回っていく。

これは、なかなかすごいことです。

新しい表現手段が増えた、という話ではなく、昔は共同体の中にあったのに、いつのまにか失われていた形式が、別のかたちで戻ってきている、という実感が強くあります。

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そこまで考えて、日本語圏のコミュニケーションのあり方とも、どこかで深くつながっている話だなと思いました。

僕らはたぶん、自分たちで思っている以上に、「うた」の国民なのだと思います。

歌、詩、唄、詠…などなど。

言葉をそのまま投げるのではなく、少し節をつけ、少し余韻を残しながら相手、共同体に渡す。意味を固定しきらないことで、かえって深いところまで届く。

短歌も俳句もそうですし、民謡もそうだし、宴席での歌もそうだった。カラオケもたぶん同じ系譜の上にある。

きれいに説明しきろうとするより、遠回りしてでも気持ちの輪郭をまず相手に渡す。そういう器として、「うた」という形式が、ずっと日本人の身近にあった。

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情報を渡すために歌っているのではなく、共通のデータベースのようなものに一緒にアクセスするために歌っている。

誰かの歌を聴いて、自分の中にある何かが勝手に呼び起こされる。それぞれが思い浮かべているものはバラバラでもいい。

それでも、同じところに触れているという感覚がたしかに共有されている、そんなイメージです。

そのやり取りのことを、僕たち日本人はたぶん、昔から「もののあはれ」と呼んできたのだと思います。

うたは、何かを上手に伝えるためだけにあったのではない。共同体の中で、言葉になりきらない気持ちを手渡し、回していくためにこそあった。

みなさんがつくった歌を聴きながら、最近そんなことを考えています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。