自分が書いた文章に、あまり反応がないことが、むしろ嬉しかったりする。
毎日ブログを書いている人間が一体何を言っているんだって話ですけれど、でも、最近そんなことをよく思います。
僕のことを好きでいてくれたとしても、僕が書くものまで、毎回好きになってもらわなくていいんだよなあ、と。
好きな人の文章でも、今日はあまりピンとこないこともあるし、途中で読むのをやめることだって、普通にあると思います。
でも、だからといって、それでその人を嫌いになったりするわけでもない。
もちろん、反応をもらえたら嬉しいことは間違いないんです。それなのに、反応がないことにも、どこか安心することがあるなあと。
では、このときに僕は一体何を、嬉しく思っているんだろう?
今日はそんなお話です。
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たとえば、誰かから「これを見て、鳥井さんを思い出しました」と連絡をもらうことがあります。
そういうときに嬉しいのは、教えてもらった「情報の中身」だけではない気がするんですよね。
相手には、相手の生活があって、僕が知らないような友人もいれば、僕とは関係のない悩みや楽しみもある。
こちらが何も話しかけなくても、その人の一日は勝手に進んでいくわけです。
そんな、勝手に進行している生活の途中であっても、ふと自分のことを思い出してくれた。
自分が何も働きかけていなかった時間にも、自分が相手の中に存在していた。そのこと自体が、なんだか嬉しいわけですよね。
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自分のために存在しているわけではない人の生活の中に、少しだけ、自分の居場所がある喜び。
人と関わることの嬉しさって、案外そういうところにもあるんだろうなと思います。
だから、人との関係で感じる「思い通りにならなさ」も、単に次の反応が読めないことではないはずです。
こちらからすると意外な反応でも、その人には、その人なりの理由がある。別のことに夢中になっていたり、自分には想像もつかなかったものを大切にしていたりする場合もあるかと思います。
こちらから見ると「思い通りにならないこと」が、相手から見ると、ただ「自分の人生に集中して生きているだけ」だったりするわけです。
ライフステージの変化なんて、とてもわかりやすい。
そして、その自分とは違う人生の話のほうを、僕は積極的に聞いてみたい。
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僕は以前から、「群れずに、群れたい」ということをずっと考えています。
誰とも関わらずにいたいわけではない。助けてほしいし、面白かったことを誰かにも聞いてほしいという感情は僕にもあります。
でも、そのために同じものを好きになったり、同じ反応をしたり、同じ方向を向き続けたりしなければならないのだとしたら、それはそれで少し苦しいなあと。
自分は自分のままで、相手も相手のままで、それでも、可能な範囲で共にいたい。
そんなことを考えていると、いま世間でこれだけ「ちいかわ」が広く受け入れられていることも、なんだか少し腑に落ちるような気がしました。
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ちいかわは、まさに「群れずに、群れたい」の物語なのだと思います。
性格も得意なことも違うし、いつも同じ気持ちでいられるわけでもない。それぞれに興味や欲望があり、相手の思い通りにはならないわけです。
それでも、共に過ごし、困ったときには、ちゃんとお互いに助け合う。ちいかわとはまさにそういう物語だなあと。
でもそうやって助け合って、仲間になっても、相手が自分の一部になるわけではない。
別々の存在のままで、また関係が続いていくような形。
しかも、彼らは、ひとりで何でもできる強い存在ではないんですよね。怖がったり、不安になったり、誰かに助けてもらわなければ、どうにもならなかったりする場面も多いです。
つまり、誰にも頼らずに生きられる者同士が、余裕を持って集まっているわけではない。
弱いまま、頼り合う。それでも、同じものにはならない。
僕が「群れずに、群れたい」という言葉で考えてきたことが、まさに物語のかたちで描かれているように見えるのです。
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そう考えると、ちいかわの流行は、いまの時代に僕らが欲しがっている関係のかたちも表れているのかもしれないなあと。
誰かとつながっていたい。でも、つながっていることを、いつも確かめ合うのは少し疲れてしまうのだ、と。
親しくしていたいけれど、毎回同じものを面白がったり、同じ熱量で反応したりできるわけでもない。
かといって、「それが嫌なら、ひとりで生きればいい」と言われても、そんなに強くもないわけで。
非常にワガママな感覚だと思います。でもワガママだからこそ正直な感覚でもある。
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ひとりで生きられるようになることと、相手に合わせ続けること。そのどちらも、一緒にいるための条件にはして欲しくはないんですよね。
そんな僕らにとって、頼り合いながらも、それぞれがそれぞれでいられるちいかわたちの姿は、ひとつの救いになる。
そして、ここが大事なところなのですが、「相手が自分とは違う人生を生きていること」って、関係を難しくする理由であると同時に、その人と関わりたい理由でもあるんですよね。
自分の知らないものを面白がっているから、その話を実際に聞いてみたい。最初は自分の話を聞いてもらうつもりだったのに、気づいたら相手の話に、夢中になっている状態があるわけですから。
話す前には、そんなことに興味を持つ自分なんて、まったく想像もしていなかったのに、です。
人と関わることで、自分が欲しいと思っているものまでがガラッと変わってしまうし、変えられてしまう。
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ただ、ここからが、また自分でも厄介だなあと思うところなんですが、
ちいかわは「群れずに、群れたい」の物語だと腑に落ちたところで、自分がその関係を生きられるかどうかは、また別の話なんですよね。
自分とは別の人生を生きている人と関わりたい。そのはずなのに、親しくなるほど、その人に、「自分のための反応」を強く求めてしまうことがある。
たとえば上述したブログの例であれば「前はよく読んでくれていたのに、最近はあまり反応してくれないひと」がいたとします。
そして、自分の文章には何も言わないのに、別の誰かの文章には楽しそうに感想を書いている。
そんなとき、少し寂しくなることはあると思うんです。
でも、その人が自分以外のものに夢中になることも含めて、その人の人生だったはずなんですよね。
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「あなたの自由を大切にしたい」と言うのは簡単だけれど、その自由が、僕の文章を読まない自由だったり、僕に感動しない自由だったりしたときに、さて自分はどうするんだろう、と思ってしまうわけです。
自分のためだけには存在していない相手と関わりたかったのに、親しくなったあとで、自分のために反応してくれる人へと、少しずつ変えようとしてしまう、そのジレンマ。
好きでいてほしいという願いが、好きでいる証拠を提出してほしいという要求に知らぬまに変わっていくから、人間関係はこじれやすい。
そういうことって、きっと、誰かを大切に思っているつもりのまま、無意識に起こってしまうような出来事なんだろうなと思います。
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さらに、「前は好きだと言ってくれたのに」という言葉には、過去にもらった好意で、未来の相手を縛ってしまうところもあるような気がしています。
今も好きでいてくれることを「あのときの好意が本物だった」という証拠にしてしまう。
すると、相手は、かつて伝えた「好き」を嘘にしないために、これからもずっと、その気持ちを示し続けなければならなくなる。
でも、あのとき嬉しかったことは、あのとき嬉しかったこと、でいいはずなんですよね。
そのあとに関心が別のものに移ったとしても、あのとき受け取った言葉まで、嘘になるわけではない。
むしろ、反応がなくなったときに、それまでの応援まで疑わずにいられるか。反応してくれない相手を、こちらは変わらずに大切にできるのか。
それが自分の側に強く問われている気がするんです。
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そう考えると、「群れずに、群れたい」という言葉も、自分が自由でいられる場所を求めるだけでは、きっと足りないはずです。
自分は、同調することを求められたくない。
では、相手が自分に同調してくれないときは、どうするのか、が問題になる。
自分が群れないことだけではなく、相手を自分のまわりに群れさせずにいられるか。相手もまた、群れずにいられるその状態を、大切にできるか。
ここまで含めて考えたいなと思います。
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ただ、それは、何をされても寂しくならない人になることではないと思います。
誰かと一緒にいたいからこそ、不安になるし、反応を確かめたくなることもある。そこにこそ好意の原石というか、源泉のようなものが存在する。
その気持ちまで、なかったことにはしなくていいはずです。
でも、自分の不安を落ち着かせるために、相手がずっと同じ反応を返さなければならなくなるのは、やっぱりどこか違うんだろうなと。
反応しない自由があった結果、相手は本当にしばらく何も反応しないかもしれない。
それでも、その人を大切に思う理由が、ちゃんと残っているかどうか。
自分を応援してくれている時間だけを、その人との関係のすべてにはしたくはないですよね。
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だから、冒頭の「無反応が嬉しい」という感覚も、無反応こそが信頼の証拠だと言いたいわけではないんです。
それを言い始めたら、相手が何も言っていない時間まで、また自分との関係を証明する材料にしてしまうから。
反応がないその理由は、究極わからない。
ただ、自分とは関係のない時間を集中して生きているのかもしれないし、その時間までを、自分が好かれているかどうかの話にしなくてもいい。
安心して書ける・話せる場所って、きっとそうやって常に褒め合わなくてもいい場所でもあるんだろうなあと思います。良い意味で、完全に無視し合える関係性。
そして、次に話すときには、その人が、僕の知らないところで何を見てきて、何を面白がっていたのかを、またゆっくりと聞いてみたい。
自分への反応が途切れているあいだも、その人の人生は続いているわけですから。
僕がこれからもWasei Salonで丁寧に耕していきたいのは、きっと、そのような関係性のほうなんだろうなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしら参考となっていたら幸いです。
2026/09/12 10:30
自分のために存在していない人と、一緒にいたい。
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