「いなくならないから」。
この朝井リョウさんの『正欲』の最後のほうに出てくるこの言葉に、いまの時代の、人と関わるための大切な態度が詰まっている気がしています。
「あなたのことは、すべてわかる。あなたの苦しみは、私が取り除く」そういうことまでを、この言葉は一切約束はしていない。
それでも、ただただ、いなくならないから、と。
何かを解決してくれるわけではないのに、その言葉があることで、もう少し生きていけるような気がする、そういう関係性みたいなものがあるのだろうなあと、ここ数年ずっと漠然と思っています。
今日はその理由について、このブログの中で丁寧に書いてみたいと思います。
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で、この言葉って、ちょっと不思議なんですよね。
未来について話しているのに、時間が経ってから振り返ったときにも、深く受け取れる言葉だからです。
「あの人、本当にいなくならなかったな」と。
そのとき初めて伝わる、この言葉の意味もあるんだろうなと思います。
昨日のブログでは、「ちいかわ」は「群れずに、群れたい」の物語なのだと思う、と書きました。
自分のために存在していない人と、一緒にいたい。
それぞれが別の存在のまま、同じ気持ちや同じ反応を求め合わずに、それでも一緒にいたい、居られる物語なんだと。
しかも、誰にも頼らず生きられる強い者同士が集まっているわけではないんですよね。弱いまま、頼り合いながら、それでも相手を「自分の一部」にはしない倫理がたしかにそこにある。
そして、その話をもう少し深めて考えてみると、ちいかわは、この「いなくならないから」の系譜にも連なる物語なんだろうなと思ったのです。
別々でいられることと、関係が続いていること。
その両方があるからこそ、あの関係には現代的な安心感や救済を感じられるのではないかと、僕は思います。
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もちろん、ちいかわたちの世界は、何も起こらない安全な世界ではないし、友情があればすべてが解決するわけでもない。
だからこそ、わからないことやうまくいかないことがある中で、それでも関わろうとする姿勢にも、意味や価値が生まれてくる。
「群れずに、群れたい」と「いなくならないから」の話は、それぞれ別々のようでいて、なんだかこうして両方が隣り合っている気がするんですよね。
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ちなみに、もちろん、この「いなくならないから」の感覚そのものが、朝井リョウさんの小説『正欲』で初めて生まれたわけではないと思っています。
相手を理解しきれなくても、一般的な恋愛や家族のかたちに収まらなくても、それでも関係性を続けようとする人たちは、それ以前の物語にもたくさん描かれてきました。
ただ、僕にとって『正欲』のこの「いなくならないから」は、その感覚を、ものすごく現代的に鮮明にしてくれた言葉だと感じるということです。
そして、それと通じる関係のあり方が、いま、ちいかわという広く親しまれている物語の中にも見事に花開いているよね、ということがここで僕が強く強調したいこと。
この「別々のまま、それでも、関係が続いている」という安心感を、僕ら現代人は思っている以上に欲しがっているのかもしれないわけですから。
ちいかわの流行を、この願いだけで説明できないことは重々承知のうえで、「いなくならないから」の系譜が、ここでこれだけ多くの人に届くかたちになっていると捉えると、僕には時代の変化の驚きと同時に、なんだか強い納得感もあるんです。
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ただ、ここで気になるのが、「いなくならないから」も、結局はただの言葉だということなんです。
言葉では、いくらでも綺麗なことが言えてしまう。
「大切にする」とか「ずっと一あなたの味方だ」とか。誰からからそう言ってもらえたら、確かに嬉しいかもしれない。
でも、キレイな言葉に裏切られることもあることももう十分に僕らは知っているから、それだけでは信じきれないところもあるわけですよね。
その言葉を聞いた瞬間に、明日を迎える気持ちが変わることだってあると思う。
ただ、そのあとにも、無慈悲にも時間は淡々と続いていく。
そして、時間が与える変化はあまりにも大きい。でも、その時間の中でも、相手は実際に、関わり続けてくれた。
そういう時間が積み重なってから、かつて言われた「いなくならないから」を思い出すと、同じ言葉なのに、まったく違う重さで自分に届いてくるっていう状態があると思うのです。
言い換えると、愛の言葉が、未来への宣言から、実際に過ごしてきた時間の手触りを持つものへと変わっていくその過程の中にこそ、何か確かに強い実感を伴う感覚が得られるんだろうなって。
いまの僕らが強く信じたいと感じているのは、そんなふうに、あとから時間が追いついてくるような言葉なのかもしれないなあと。
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でも、「いなくならなかった」という事実だけでは、まだ、何も決められないなとも思います。
一緒にいることが当然であって、離れたいと言うこと自体が責められる関係だって世の中にはたくさんあるわけですよね。昭和の夫婦や家族なんて、まさにその典型例です。
だから、長く一緒にいたという事実だけを見て、そこに深い愛があったと決めることはできない。
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「いなくならないから」が大切な言葉であり続けるためには、離れることや、関わり方を変えることも、各人に自由に選べる必要があるんだろうなと思います。
それは、誰にも頼らずにひとりで生きられることが条件だ、という意味ではありません。それだとまた安っぽいフェミニズムの話に落ちてしまう。
人は必ず頼り合うし、関係が大切になるほど、離れることに強い痛みも生まれてくる。そのうえで、残ることだけを唯一の正解にはしない、ということです。
相手にも、自分にも、関係を選び直す余地がいつだってちゃんと残されてある。
「私はいなくならない」と差し出すことと、「あなたはいなくなるな」と求めることは、似ているようで、まったく違うはずですから。
だから、「いなくならないから」と、男女関係なく自分からそう差し出すことは、現代における倫理の最小単位なんだと思います。
もし世間が「本当に愛しているならば、残るはずだ」と言い始めたその瞬間に、この言葉は、また人を縛るための言葉になってしまうような気がするのです。
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そして、人間は変わります。万物は流転する。
一生同じ価値観で、同じ気持ちで、同じように相手に接し続けられるとは限らない。
出会った頃にはできていたことが、全然できなくなるかもしれない。逆に、当時は想像もしなかったものに夢中になることだってあると思います。
だから、「いなくならない」を、「私は絶対に変わらない」という宣言にはしちゃいけないなと思います。
むしろ、相手も自分もあの頃とはずいぶん変わった。以前のように頻繁には会わなくなったし、支えていた側が、支えてもらう側になったという場合もあるはず。
昔は、わかったつもりでいた相手のことが、長く付き合ううちに、逆にドンドンよくわからなくなってしまうことだってあると思うのですよね。
それでも、そのたびにまた、新たな関わり方をずっと模索し続けてきたその過程。
その過程を振り返ると、同じ状態が続いていたわけではないのに、その人との関係は変わらずに続いていた、と思える。
互いに変わり続けていたことで、何も変わっていないように思えるということです。
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一生やり続けると宣言することと、実際に一生やったという事実の違いなんかにも近い。
僕には、ここに昭和と令和の物語の違いもあるように見えるんです。
前者の威勢の良い覚悟を大々的に描き続けてきた昭和の物語と、後者の事実としての日常を淡々と描き続けてきた令和の物語。
ただ、ここもまたややこしいのですが、だからといって、一生の終わりまで待たなければ、何も信じられないわけではない。
そんなこと言ったら、人生の答え合わせが全員、100歳前後になってしまいますからね。
そうじゃなくて、今日までの時間の中にも、すでに「あのときも、このときも、この人はいてくれた」と思える場面が必ずあるはずで。
その時間は、これからどうなるかとは別に、ちゃんとそれぞれの中に残っている。その事実こそが僕らを支えるよね、と。
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そう考えると、結婚や契約のようなものも、少し違って見えてきます。
契約があるから一緒にいるだけなら、そこに愛はない、とも簡単には言えない。約束があるからこそ、安心して相手に何かを預けられることも、実際にありますからね。
ただ、その足場があれば、関係が自動的に育っていくわけでもないということが、僕がここで言いたいことです。
好きだから関係を結ぶ、という従来的な順番は、もちろんある。
でも、先にただそばにいることを選び、その反復を、あとから振り返ったときに愛と呼ぶこともできるのかもしれない。
それが今日僕が強く強調したい点。
一緒に過ごしてきた時間が信頼になって、その人に預けられる愛が、事後的に育つ。それを僕らはあとから発見する。
そういう順番も間違いなくあるんだろうなと思いますし、この令和の時代にはそれが今ありとあらゆる角度から見直され、発見されつつある。
それこそ小説や映画、マンガやアニメなど、ありとあらゆる物語でその意義や価値が描かれ直そうとされているように僕には見えます。
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ただし、続いてきた時間もまた、相手を縛るためにはいくらでも使えてしまう。
ここもまた落とし穴があるので、注意が必要だなと。
「これだけ長く一緒にいたのだから」とか。「あのときも、そばにいてあげたのだから」とか。
続いた時間を、これからも関係が続くはずだという「権利」や「義務」に変えてしまうと、また同じところに舞い戻ってきてしまう。
続けた側が恩を着せることも、受け取った側が「この人はこれからもいてくれるのが当然だ」と思うことも、きっと気をつけなければならないんだろうなと思います。
「あのとき、いてくれた」と受け取ることと、「だから、これからもいるべきだ」と求めることはまったく違う。
そして、たとえいつか関係が終わってしまったとしても、そこまでの時間が嘘になるわけではない。
いなくならなかった時間に愛を感じることと、いつかいなくなった人の愛を否定することは、まったく別の話です。
これは、昨日書いた、今の反応が変わったからといって、過去にもらった好意まで嘘にしなくていい、という話とも見事につながっています。
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「いなくならないから」。
この言葉を一度言えば、何かが完成するわけではないです。そのあとも、未来には両者にとってわからないことはたくさん起こるし、お互いに変わっていくことは世の必定。
それでも、今日までを振り返ると、あのときも、このときも、この人は、いつもそばにいてくれた。
その事実は、未来を保証してくれるわけではないけれど、今日だけは、もう少し相手を信じてみよう、そう思えるための小さな足場にはなる。
そうやって振り返ったときに初めて、「いなくならないから」という言葉に宿る現代的な「勇気」の形があるんだろうなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/09/13 11:21
「いなくならないから」の倫理。
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