最近、オーディオブックで聴き終えたオリバー・バークマンの『不完全主義    限りある人生を上手に過ごす方法』。

『限られた時間の使い方』を書いて一躍有名になった著者の新刊です。

この本のなかに「川」というメタファーが、よく出てくる。

仏教思想や老荘思想、ストア哲学に感化を受けている著者だからこそ、川を重視するのだろうなあと思います。

たとえば「読書は、川に浸りに行く感覚で読みに行くのが大事」と語られていました。

これは本当にそうだなと思います。読書の完全主義を目指すと、全部読まなければと苦痛になる。そうではなく、「書籍」という流れている川に、自分が浸りに行くイメージが大事だと。

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僕が散歩読書を日課にしているのも、まさにそうです。

僕は「読書」という大きな川の流れに合流しに行くような形で、毎日散歩をしている実感が強くあります。

自然と浸ることができるから溜まりもしないし、全部を読破しようともまったく思わない。散歩のコースが終了すれば、そこで終わるし、その翌日もまた淡々と川に浸りに行くイメージです。

再生ボタンを押せば、自然と流れ始めるオーディオブックは、川の流れみたいだなあといつも思っています。

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で、この話を受けて「人生は、川みたいなものだ」という話を最近よく考えてしまいます。本書の中でも、そんな話が出てきました。

そもそも、世界自体が既に大きな川なんだろうなあと。

僕達は、この世界、つまり既に流れている川に対して圧倒的に遅れてやってきた存在。

そうだとしたら、この川にどうやって乗るのか、どのようにして合流するのか。

それがほんとうの課題だなと思うのです。

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で、その問題に対して、手取り足取り説明をしてくれる解説動画や、初心者向けの内容が溢れているのが現代。AIなんて、その最たるものじゃないでしょうか。

それこそが、既に流れている大きな川への優しい合流のさせ方だと思っている。

でも、果たして本当にそうなんだろうか。それが今日のいちばんの問いになります。

言い換えると、「ゼロから分かりやすく」という態度は、一見親切ではあるのですが、実は「川の流れを止めて、バケツに汲み取って、その水だけを見せている」ようなもの。

それでは当然のように、水はすぐに腐り始めますし、川のダイナミズム、そのうねりや冷たさ、速さみたいなものはすべて失われてしまう。

ただ、バケツの水は確かに持ち運びやすく、飲みやすくもあるわけですよね。初心者に対しても、これが川の一部だよ、と説明しやすい。

しかし、それはもはや「川」ではないはずなんですよね。流動性を失い、腐敗が始まっているわけだから。

言わずもがな、ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、です。

移動する相こそが、川の本質であるはずなのだから。

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だとすれば、川とは何かを初心者に対して、ゼロから説明してくれるわけではなく、流れている川にスッと合流させてくれること。

それこそが、ほんとうの優しさに思えてきませんか。

決して、わかりやすく説明なんかはしてくれないけれど、その流れにはしっかりとのせてくれることのほうが圧倒的に大事なのではないか。

それが今日の僕の一番の主張になります。

逆に言えば、ゼロからわかりやすく説明してくれる存在というのは、大抵の場合、詐欺師なんかにも近いなと思います。

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この点、寅さんと甥っ子の満男の関係性というのは、すごく示唆的だなと思う。

赤子の頃から知っている満男が、19歳の浪人生になったとき、まさに今社会に出ようとしているタイミングで、ひとり深く悩んでいる。

両親が心配する中で、余計な口出しをせず、下町でどぜう鍋をつつきながら、黙って一緒に酒を飲みに連れて行ってあげる寅さん。

このシーンがほんとうに象徴的だなと思いました。

ただただ黙って「大人の世界(つまり川)」に、横並びで座らせる。その一見すると冷たい距離感が、逆に相手を一人の泳ぎ手として尊重することに、見事につながっているなあと思ったんですよね。

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突き放しているようでいて、実は「おまえならこの流れの中で、自分なりの浮き方を見つけられるはずだよな」という、絶対的に信頼に基づいているように、僕には見えました。

しかも、同時に、まだまだクソガキだということも思い知らせる。

ベロベロに酔いつぶれる満男のことを、散々バカにもする寅さん。

この両方をやることが大切。どっちかだけだと成立しないんだろうなと。

このアンビバレントな緊張感みたいなものを、ナナメの関係にある人間から施されるから気づけることが確かにある。相手を一人前として尊重しながらも、決して安易に甘やかしもしない。

そしてこれこそが、おじさんの役割だなあと思う。

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で、話は突然飛びますが、松岡正剛さんも、まさにそういうタイプだなと思います。

すでに流れる「大きな川」に対して、見事に合流させてくれる方だなあと。

松岡正剛さんの話は難しすぎて、というか、必要とする前提が多すぎて、正直何を言っているか全然わからないことも多いです。

千夜千冊マラソンをしていて、毎日1本ずつブログを丁寧んい読んでみても、未だにわからないことが山ほどある。

ただ、読んでいるうちに、わからないなりに、何かがわかってくる。「なるほど!そういうことか!」というふうに。

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そして最近、『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』という松岡正剛さんと津田一郎さんの対談本のオーディオブックを改めて聴き返しました。

発売当初にも一度試しているのですが、そのときは何が語られているのかが、まったくわからなくて途中で挫折してしまいました。

でもその後、松岡正剛さんの本を何冊か読破をし、千夜千冊マラソンを始めたあとに、もう一度この本に触れてみると、ものすごくおもしろいのです。

お二人が何について語られているのか、今も全然わからないのですが、意味がわからないなりに、コードみたいなものはわかってくる。

意味とか定義じゃなくて、そのノリみたいなものがわかってくる。

ここでは、とても大事なことが語られていることだけはよくよく理解できるし、素直にここに書かれてあることを自分も一緒に理解したいなと思わされる。

そうすると俄然、おもしろくなったんですよね。そして今回は、一気に聴き通してしまいました。

こんなにおもしろい本を、前回はなぜ途中で離脱してしまったのか、自分でもわからないほどにおもしろい。

誰に何を教えてもらったわけでもなく、ただただ、わからないなりにそれでも黙ってついて行っただけなんです。

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この点、近年よく語られるような「消費者を育てる」「読者を育てる」という言い方、たしかにそういう側面もあるけれど、それだとあんまりうまくいかない気がしています。

本当の意味での、学びの場としての装置とは一体何なのか。

僕はそれを真剣に考えたい。

ゼロから学ばせることじゃなくて、すでに流れている「大きな川」に乗せてあげることなんじゃないか。

バケツで川の水だけをくんできて「これが川の水だよ」って示して、わかった気にさせないこと。

それよりも大きな川にまずはのせてあげること。

これは、親的な役割ではなく、寅さんのようなおじさん的な役割なのだと思います。

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また、学びの場に限らず、コミュニティなんかもそうだと思います。

コミュニティ運営でよく語られるのは、オンボーディングの重要性。

でも、過度にオンボーディングを重視しないほうが、コミュニティはうまくいくなと僕は思っています。

「丁寧に説明を尽くして、迷子にさせないこと」は立派なおもてなしかもしれないですが、それは逆に「自力で泳ぐ力」を奪っている状態とも言えそうです。

それよりも、一緒に泳ぎだすことのほうが大事だと僕は思います。

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「今日から、あなたは会員です。それではまずはこのマニュアルを…」としてお客様扱いしてしまうのではなく、「ああ、そこにいたの。じゃあ、この前の話の続きなんだけどさ」と、あたかも最初からそこにいたように、巻き込んでいく。

「既に流れている川に自然と合流しておいで、前々からあなたもここ参加していたじゃないか」ぐらいのテンションでお付き合いをする。

キレイに整えてサービスだらけのおもてなしではなく、普段着のおもてなしを重視する。教育しすぎないし、啓蒙もしすぎない。

文脈の断片だけを示して、流れている川に自然とのってもらう。そして、そこに誤読や誤配があったとしても、一切気にしない態度を貫き、開かれた対話の場を形成する。

それがほんとうに大事だなと思います。

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今日のこの話は、運転免許の高速教習みたいな感じにも似ているなと思います。

路上講習でアレをを体験したことがあるひとは、よくよく理解できると思うのですが、突然、実際に高速への合流を促されるわけですよね。

後戻りは一切できない。「もう、この流れにのるしかないよ」とある種突き放された態度で、いつ合流すれば良いのか、そのタイミングさえ教官からは教えられない。

ただ黙って見守られるだけ。

そのときは飛ぶしかない、みたいな感じでもあるんだけれど、あの体験があるからこそ、僕らは、免許取得後も自然と高速道路に合流できるようになっていく。

もし仮に、あれを何度も何度も擬似的に止めたり動かしたりしながら、体験させられたら、逆に乗れるものも乗れなくなってしまうよなあと思うのです。

これはなかなかうまくいえないけれど、全部を止めてあげることだけが、優しさじゃないということ。

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浸り切る、作品群として触れる、というのは、この川の流れに自然と合流できるようにしてくれている。

気づいたら、なぜか、何も準備やゼロから学ぼうなんてしていないのに、すでにできてしまっていたという体験。

門前の小僧習わぬ経を読む、みたいな。

経典の意味はわからなくても、そのリズム、空気感、声の震えの中にずっと浸っていることによって、ある時ふと自分自身も、すでにその流れの一部になっていたと気づく。

自分自身がもはや「川」なんだと気づく瞬間がやってくる。これは、川を対象として分析している間には、絶対に訪れることのない境地だと思います。

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だとすれば、この体験をコミュニティ単位で増やしていくためには、どうすればいいのか。

このあたりを、引き続き考えてみたいなあと思います。身体的同期や共振なんかにも近い話だと思うから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。