昨夜、坂ノ途中の小野さんと、クルミドコーヒーの影山さんが対談する「哲人の雑談」というイベントに参加してきました。

https://www.instagram.com/p/DSZySxpAZ7h/

これが大変素晴らしいイベントでした。本当に参加してよかったなあと思います。

企画してくださった喫茶「ことぶき」の岡田亜理寿さんには、心から感謝したい。

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この手のイベントではめずらしく、昨日のイベント内では「資本の論理」の話が、かなり深いところまで語られていました。

坂ノ途中さんは、スタートアップとして、すでに40社以上から投資を受けているらしいです。もちろん上場も視野に入れている。

一方で、クルミドコーヒーさんも、僕は今回初めて知ったけれど、いま事業投資型クラウドファンディングを始めているそうです。

キングコング西野さんが最近Voicyでよく宣伝しているのと同じ仕組み・同じプラットフォームを使われているとのこと。

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で、両者ともに、資本の論理を熟知されている方々です。

小野さんは、フランスの外資系金融機関ご出身で、金融の文脈の話もわかりつつ、社会起業的な文脈にも精通している方。

また、影山さんも、マッキンゼー&カンパニーを経て、ベンチャーキャピタルの創業に参画されていた方です。

そして、僕はこういう話が大好物でもあります。

「資本をどう活用するか」は、これからの時代の中心テーマになることも間違いない。

ただ、僕がお二人の話を聴きながら、じゃあ一体どこでその「歯止め」を行うのだろう?ということを考えてしまいました。

その時の、倫理って一体なんなんだろうか?と思ったんですよね。

それを考えながらお二人の話を聞いていたら、僕はなんだか頭を抱えてしまった。

そしてその答えが、未だにまったくわかっていない。

今日はそんな問題意識や課題意識を、このブログにも備忘録的に書き残しておきたいなと思います。

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まずこの点、いま社会の問題意識としては「資本主義が加速しすぎて、大資本が世の中で幅を利かせてしまった結果、失われたものがたくさんある」という感覚だと思います。

だからこそ、社会起業とか、小さな美しい物語のほうに、人も集まる。

少なくとも、昨日のようなイベントの場に集まる人たちは、そのあたりに課題意識を持っている人たちだと思います。

そしてだからこそ、きれいな物語、あるべき正しい物語でコーティングすれば、お金も人も集まってくる。

そして、その集まったお金によって、資本の論理で、事業(物語)を加速度的に進めることができるわけです。

でも、じゃあ、その乗りかかったバスというのは、一体どこで降りるのが適切なのか。

ここが、もともと「資本の論理」に対して違和感がある側の集まりだからこそ、いちばん問題になるなと思います。

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もちろん、現代に生きている以上、資本や金融の論理からは誰も逃れられない。

それはもう、現実主義として諦めないといけない部分もある。資本主義がもたらしてきたメリットも山ほどあるわけですから。

僕らがスーパーやコンビニ、AmazonのようなECまで含めて、いまの生活を享受できているのも、資本と投資、株式会社という仕組みのおかげ。

だから、資本を一切否定もしないし、否定もできないのが正直なところだと思います。

でも、とはいえ行き過ぎだとは思うわけですよね。もう少し丁度いい塩梅があるだろうと感じている。

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これは、実感がないひとにとっては、分かりづらい話かも知れないけれど、現代に生きている以上、スマホをもはや手放せないことにも近いと思います。

この時代に生きている以上、どれだけ僕ら人間にスマホが害悪を与えるとわかっていても、それから離れることはできない。

現実主義として、スマホはもう必須アイテム。スマホ否定派になった場合には、完全に世捨て人になるしかない。

であれば問題は、スマホを使いつつ、でもそれに自らが乗っ取られないように、丁度いい塩梅の距離を取るため、スマホに支配されないための方法や倫理を考えなくてはいけない。

このあたりは、書籍『スマホ時代の哲学』の問題意識なんかにも非常に近いと思います。オーディオブックカフェで、著者の谷川さんがゲストで来てくださった時に語ってくれたお話と直結する部分です。

https://x.com/audiobookcafe33/status/1994265484443701732

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で、このスマホへの問題意識は、資本の論理とまったく同様の構造だという話です。

少なくとも、自分で事業をやろうとすれば、資本の論理は無視できない。

普通のクラウドファンディングもそうだし、VCから出資を受けるスタートアップもそう。最近注目を集める事業投資型クラウドファンディングなんかもそう。

とはいえ、じゃあ、どこまでその資本の論理に僕らは接近していいのか。

繰り返しますが、もともとは否定派から移り変わったからこそ、ここが問題になると思う。

イーロン・マスクやジェフ・ベゾス、孫正義さんや堀江貴文さんには、たぶん存在しない葛藤です。彼らは最初から「そちら側」に振り切っているから。

でも僕らは、そのような大勢側に対して違和感を持っているわけですよね。

そうやって大規模農業や大手チェーン店のカフェなどに侵食された結果、何かが違う、大切なものが失われていると思って始めているような事業であり、そこに応援者も集まっているわけだから。

じゃあ、自分たちも資本の論理というバスに乗ったとき、どこで降りるのか。

降りる時の基準は?何が歯止めになるのか?その倫理とは一体何か?それがサッパリわからない。

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で、僕が思う「現代人の本当の悩み」は、ここにあると思うんですよね。

「事業化できない」のではなく、資本の論理を用いればいくらでも事業化できてしまうからこそ、どうやってそこから降りるのかが分からない。

過去に何度も書いてきた「資本の他者性」との付き合い方みたいな話です。

資本は、人間のことなんて、一ミリも興味がない。勝手に自己増殖をしていく。


そんな資本の自己増殖の力学を活用することが「悪魔との契約」だとすれば、その悪魔とどうやって付き合うのか。

その資本という悪魔が「鬼神」だとした場合「鬼神は敬して遠ざける」としたときの敬し方、遠ざけ方のほうが問題だろうと思うのです。

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「手段の目的化ではない範囲で」というのがひとつの答えだと思う。

実際、それもそのとおりだと僕も感じる。

でも「もっと良い世界を!」には際限がないとも同時に思います。

資本のテコの原理を使うからこそ、資本で加速して実現した世界が正しく見えてしまう。そのとき資本は、見事に肯定してくれるわけです。

「あなたたちは正しい。だから、お金も人も集まっている」と。

でも、だからこそ結局、誰も資本の論理から降りられない構造になっているんじゃないか。

つまり、自分で、火に油を注ぐような状態になってしまっている。

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さらに厄介だなと思うのは、これこそが「世の中にきれいな物語が蔓延る」原因にもなってしまうこと。

きれいな物語でコーティングをして、自分たちが理想とする社会、正しいと思う社会を、資本のレバレッジを効かせて実現できることを、見事に証明してしまうからです。

そして、『花咲かじいさん』に出てくる悪どい爺さんみたいに、そのような成功をみて、きれいな物語部分だけを、真似し始めるヤツらが必ずあらわれる。

というか、既にそんな人間が世の中にはたくさんいますよね。まさにSDGsブームの成れの果て。

そんな偽善的物語こそが幅を利かせるからこそ、結果的に「正直な悪」を生み出してしまっている現状だってあるわけですよね。

「シャンパンリベラル」と揶揄されるようなことになるから、足元をすくわれるわけだし、その隙や脇の甘さがトランプやプーチンの台頭を招いた。

ネット上に無限に存在する剥き出しの怒り系コンテンツなんかもまさにそうです。

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2026年現在、今後世界的にインフレが加速するということは既定路線です。

長いデフレ下や、リーマン・ショックで痛い目をみたわけだけれども、ここから再び、資本の話が中心になることはまず間違いない。

資本を味方にしたものが、ビジネスの勝負の世界で勝つことは間違いない。

もっと具体的に言えば、このタイミングで大きく借金できたヤツ、大きく集めて、インフレの魔法を使って将来小さく返済するヤツらが勝つのは、もう間違いないんです。

そんなふうに大風呂敷(きれいな物語)を広げるチキンレースが既に始まっている。

それが、これまでのデフレ下とはまったく異なる状況だと思います。


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そして、繰り返すけれどそれは何も一切間違ってはいない。

その物語が、みんなに求められるような、応援されるような正しい物語であればあるほど、本当に強くそう思います。

でもそれが、どんな立場にいるひとであっても、資本の論理から降りられない構造を結果的に生み出してしまっているじゃないか、というのが僕の今の課題意識です。

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だからこそ、じゃあ、どこで歯止めを効かせるの?と。

資本や金融の物語に、のりつつのらない、ってどうすればいいのか。

「資本」という「鬼神」をどうやって、敬して、遠ざけるのか。弔いや鎮魂の感覚なんかにも近い。

その時の倫理や礼儀作法が、今の僕にはまったくわからない。

「とりあえず行けそうだから行ってみよう、このバスに乗り遅れるな!」が今の価値観やトレンドだとは思いつつ、そうやって向かうから、突然その鬼神に背後からガブッと食われてしまうと思うのです。

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ひとつだけハッキリと言えることは、資本の論理だけに振り切ることだけは違うと思うという点です。

それは現代に生きていて、スマホに振り切っちゃいけないのと同様。

そのあいだの適切な塩梅を探ること。

で、僕はここにこそ「京都的なヒント」があると思っていて。

このような状況下において大切な節度が、ちゃんと街単位で育まれていて、京都という複雑な文化・宗教のなかに歯止めの規範やコードが人類の叡智として埋め込まれている。

かつ、未だそれがちゃんと残っていて、生きて機能しているのが、京都という街だと思っている。

資本もうまく活用をしつつも、持続可能でありながら、なおかつそこに振り切ってしまわない矜持というか、捻くれ感が、京都の持つ強み。

だからこそ、僕は坂ノ途中の小野さんに多分に期待しているところもあります。

資本との付き合い方が、これから“いくらでもうまくいく”時代だからこそ、いま本当に大事な観点だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。