最近よく思うのですが、

デニーズでラーメンを食べて、「想いのある店主が運営している町の小さなラーメン店のほうが美味い!」と主張する、そんな構図の批判を目にする機会が増えてきました。

これはいま僕が考えたわかりやすい例ですが、つまりレガシーの中に存在する全く時代に追いついていない部分を見つけ出し、その部分を批判し、自分を肯定するような意見です。

言わずもがな、ファミレスにはファミレスの役割や価値がある。

そこを無視して、いまの新しい潮流(自分たちの正義)を振りかざしてみても、何の意味もありません。

時代の変わり目だから仕方のないことなのかもしれませんが、このような批判を最近よく見かけるなあと。

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一方で、レガシー側は「とはいえ、ゼロよりは価値はある」という反論を繰り返す。

「それはそうかもしれないが、ないよりはマシだろう。自分たちにも一定の価値はある」と。

レガシー側は、こうやって世の中の新しい流れに目を背けて、変化することを拒んでいく中で、いつのまにか淘汰されてしまうのでしょう。

また、こうやって論争をしていると、どこからともなく現れてくるのが「中庸に振り切る」ひとです。

https://twitter.com/hirofumi21/status/1273054309723205633

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重要なのは、自分の口から発している内容ではなく、その言葉を発しようと思った自分の心のほうだと思うのです。

どこかで聞きかじった正しい(そうな)ことを鵜呑みにして、それを真似して主張することは誰にでもできます。

そうではなく、なぜ自分はその言葉を選ぼうと思ったのか?

本当の真意は一体どこにあるのか?

「変わりたくない、共感を得たい、あれは価値が低いと見下したい…」

そういった心のうちに潜む卑しさからではないのかを常に自己点検したいもの。

ひとは、なによりも自分の心のあり方に一番蝕まれていきます。

だからこそ、発する言葉以上に自分の心のあり方のほうに常に意識を向けていきたい。

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そのためには、時に「傍観者」でいることも、僕はとっても大事なことだと思います。

まわりに流されず、一呼吸おいて考えるためにも。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。