昨日のブログで、Anthropicが年収4000万円超で募集している編集職の話を書きました。

参照:AIに責任だけは渡せない。人間の首に高額な値段がつく理由。

AIがすべてを実行する時代に、どうしても人間に残る役割は「責任の宛先」になること。人間の組織は責任の絶縁体を何層にも重ねた構造物だけれど、AIは責任をまったく吸収せず、素通りさせてしまう。

だから企業はその世間の雷が落ちるさきの避雷針として、そのクビを切ったときに世間の怒りが収まるような人間を、地位と権力と名誉とともに、先に立てておかなければならない、というのが昨日のお話です。

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ただ、読み返してみると、我ながらずいぶん暗いなと。

このままだと「AI時代、人間の役割は、自らのクビを差し出し、吊るされ役として生き残るだけ」という結論で終わってしまいます。

でも実は、この話には、もうひとつのまったく別の側面があると思っていて。

責任の宛先になることは、呪いであると同時に、まわりの人間への「贈与」や「荷物を共に持ち合う優しさ」にもなりうる。

今日はそんな続きのお話を書いてみたいと思います。

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昨日の最後にも紹介した、今年の3月に収録したF太さんとのVoicy対談。

ちょうど、サロン内にあの「闇バイトの受け子」の投稿を書いたのと同じ頃です。


「シングルタスクとマルチタスク」の話をしていたはずが、途中からまったく別の場所に着地した回でした。

そのとき僕が話したのは「従来、生身の人間に仕事を外注するというのは、実は作業だけを渡しているわけじゃないんじゃないか」という話でした。

僕らは人に仕事をお願いするとき、責任ごと他者に渡している。

言い換えると、信頼できるマネージャーや秘書、社員に何かを託すとき、僕らは「もうこれについては考えなくていい」という心の平穏までを、一緒に受け取っている。

ところがAIには、これができないんですよね。

AIにどれだけ完璧に仕事を振っても、責任だけは一ミリも渡せない。

経理の計算をAIに任せても、AIの作業が間違っていたときにその結果責任を引き受けるのは、どこまでいっても自分、です。

だから頭の中では、振ったはずのタスクにも関わらず「ポワンポワンといつまでも通知を出し続ける」わけです(これはF太さんの絶妙な表現です)。

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で、F太さんはこの対談で、僕の話を聴きながら、こう言い当ててくれました。

「責任を手放さないと、本当の意味で、われわれはシングルタスクの境地には入れない。」

これはほんとうに言い得て妙だなと。AIで何でもできるようになったのに、なぜかどんどん疲れていく現象ってありますよね。

それっていうのは、全部自分で完結できてしまうから、なのだと思います。

結果として、全部の責任が自分に返ってくる。人類みな経営者とは、まさにです。

すべてがAIによって便利になったのに、責任の分散だけがうまくいっていないから、余計にしんどくなる。

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この点、対談の中でF太さんが挙げてくれた例が、とても素晴らしかったです。

F太さんが運営されているカフェにクレームのメールが来たとき、F太さんは共同経営者でもある奥様と一緒に、返信文を考えるそうです。お互いに思うことを言い合って、「こう書いたけど、どう?」「いいんじゃない」と、二人でOKを出す。

この小さな稟議を回すことによって、責任が分散されて、気持ちが楽になるんだ、と。

最悪うまくいかなくても「これだけ二人で考えたんだから」と思える。

どれだけ高性能なAIを何体並べて、完璧な謝罪文を作らせても、送信ボタンを押すと決めるのが自分ひとりなら、この苦しさはまったく変わりません。

AIは、送信ボタンの重さだけは肩代わりしてくれないんです。

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そして、この対談の中で、僕らが何度も立ち返った言葉があって、それが「お互いの荷物を持ち合う」というメタファーです。

人に何かを任せるというのは、荷物を持ってもらうこと。

そして、自分もまた誰かの荷物を持ち、自分の荷物を持ってもらう立場にもなる。

そうやってお互いに荷物を持ち合うことこそが、本当の意味で他者を信頼し自由にするということであり、人間と「共におこなう」ということの意味なんじゃないか。

AIには、作業は全部渡せても、「心の重荷」までは持ってもらえません。

でも人間は、作業と同時に相手の心の重荷まで、ちゃんと共に持ってあげることができる。

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で、この対談の内容を思い出したとき、昨日書いたAnthropicの求人の意味が、僕の中でくるっと反転しました。

あの求人は、Anthropicが「責任を渡せる相手」を4000万円で買った、ということなんじゃないかと。

あの会社は、世界最高の文章生成AIを、社内で無限に使えます。

文章の品質チェックだって、AIを何段重ねにでもできる。エヴァのMAGIシステムみたいに、性格の違うAIを三体並べて合議させることだって、いくらでもできるはずです。

それでも、公開ボタンを押す苦しさだけは、Claudeに肩代わりさせられなかった。

つまり、経営者たちがシングルタスクになれるようにするために、責任を丸ごと引き受けてくれる生身の人間としての編集者が必要だった。

AIに文章を書かせる会社が、人間の編集者を雇うというのは、昨日も書いた通り、これは皮肉なんかじゃありません。

「AIには責任を渡せない」というテーゼを、AI企業自身が、求人票という形で世界一雄弁に証明してしまった、そういう出来事なんだと思います。

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あと、F太さんとの対談の中には、もうひとつ忘れられない話がありました。

「昔の家には、女中さんがいた」という話です。

今は母親ひとりに、家事も育児も仕事も、すべてのタスクが集中しています。便利な家電もあるのに、というか、それらがあり核家族がいともカンタンに実現できる社会になったからこそ、逆説的にお母さんたちは、どんどん追い詰められていったわけですよね。

その結果として、旦那も仕事だけではなく、家事や育児、子育てにも参戦しろ、という話になっている。

一方、昔の家では、たとえば子どもが怪我をしたとき、女中さんの監督責任は奥さんに来るのだけれど、でもやっぱり、心のどこかで「自分だけの責任じゃない」と思える余地があった。

つまり、責任が、家という共同体の中でちゃんと分け持たれていたわけですよね。責任者がたったひとり自分だけの場合と、自分が全員の責任を背負う立場の場合、まったく意味合いが変わってくる。

そして、誰かの責任を自ら背負うことは、本来は幸せなことでもありますから。これはチームのリーダーになったことがある人なら、必ず理解してくれる部分だと思います。

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ここまでの話を一旦まとめると、タスクはAIで置き換えられる。でも、責任の分散だけは、人間がいないと成立しない。

そう考えると、昨日書いた「責任の宛先」には、二つの顔があることに気づきます。

ひとつは、生贄の顔です。まさに東條英機であり、闇バイトの受け子であり、拒否権なしに吊るされ役だけを引き受けさせられる誰か。

もうひとつは、信頼できる女中さんのような顔。その人がいてくれるおかげで、まわりの人間が「自分だけの責任じゃない」と思えて、目の前の仕事に、シングルタスクの境地で集中できる。

そんなふうに荷物を分けて持ってくれる誰か、「おたがいさま」や「おかげさま」と言い合える関係性こそが大事で。

これこそ、「責任の宛先」になることはまわりの人間への贈与にもなりうるということの意味でもあります。

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あと、あの対談の終盤で、F太さんが職場の新人さんの話をしてくれました。

ミスをして落ち込んでいる新人に、帰りがけに缶コーヒーを買って「今日はお疲れ」と渡すこと。そういう小さなやり取りの積み重ねがあるから、人は仕事に向き合えるようになっていくんじゃないか、と。

これも素晴らしい話だなと思っています。

外形的に見れば、文句も言わずに24時間働くAIに置き換えたほうが、どう考えても合理的なんです。

でも僕らの仕事におけるやりがいや充足感というのは、実は、あの缶コーヒーのやり取りの側にあったのかもしれないなと。

それは、目の前の困難を誰かと一緒に担って、それをなんとか共に乗り越え、成功も失敗も共に労い合う。そういった物語のなかにこそやりがいがあった、という意味です。

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あと、ここで昨日の戦争の話に、もう一度だけ戻ってみると、戦時中の日本にも、責任の「分散」自体はあったと思います。

問題はむしろ、分散しすぎていたこと。

御前会議の空気の中に責任は薄く薄く引き伸ばされて、最後には責任は誰のものでもなくなってしまった。

丸山眞男の言う「無責任の体系」とは、責任の分散が行き着いた成れの果ての姿だったのだろうなあと。

じゃあ、F太さんご夫婦の稟議と、当時のソレはいったい何が違うのか。

同じ「複数人でOKを出す」でも、F太さんご夫婦の稟議では、二人とも引き受けているんです。

「これだけ二人で考えたんだから」と言えるのは、二人ともが自分の責任として抱えたからですよね。責任が消えたのではなく、二人分に増えて、そのぶん一人あたりの重さが軽くなったということですよね。

つまり、責任の分散には、二種類あることに気付きます。

ひとつは、引き受け手を消していく分散。もうひとつは、引き受け手を増やしていく分散。

戦時中の日本の組織は、完全に前者でした。書類のサインや判子が増えるほど、逆説的に責任者は減っていった。

一方、F太さんご夫婦は、後者です。OKを出す人が増えるほど、引き受ける主体も増えていく。

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そして怖いのは、AIを組み込んだ現代の組織が、放っておくと必ず前者に滑り落ちていくことです。

「AIがそう言ったので」「データがそう示していたので」と、これは戦時中の「空気がそうだったので」の現代語訳にほかならない。

80年経って、あいまいな「空気」の席に、AIが座っただけです。

だから、戦時中の組織の失敗から、僕らがいま引き取るべき教訓はたぶん「分散するなら、引き受け手が増える方向に分散すること」に尽きます。

会議の空気で決めないこと。「私がこれでいくとOKを出した」という人を必ずひとり残し、そして、できれば、ふたり。そしてそのふたりが、うまくいかなかった日に缶コーヒーを渡し合える関係性まで育まれていれば、なおいい。

一方で、責任の宛先を「押し付け合う」組織は、無責任の体系に向かってしまいます。

でも、責任の宛先を「引き受け合う」組織は、ともにその重責を持ち合いながら、何かが起きたときには「自分の責任だ」と、自分のほうこそを悪人にすることができる。

そして、そういう組織だけが、メンバーを本当の意味で自由にしてくれるのだと思います。

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AIによって生成が無限になった世界で、人間の首には高額な値段がつき始めました。

それ自体は、もう避けられない流れだと思います。

AIは人間の仕事を奪うというより、人間の仕事を「責任」という一点にまで蒸留していってしまう。

そして昨日も書いた通り、その首は「切ったときに世間の怒りがちゃんと収まる首」でなければならない。だからこそ、わかりやすい地位と名誉と、客観的な尺度としての高給が、先に与えられる。

でも、それゆえに、これからの時代に自分の首の値段を決めるのは、スキルではないのかもしれないと、僕は思います。

その責任を誰かと分け持てる関係の中にちゃんといるかどうか。その関係性を育んで行けるかどうか。

缶コーヒーを渡してくれる誰か、渡したい誰かが、ちゃんと同じ仕事仲間としてそばにいるかどうか。

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繰り返しますが、AIには、責任だけは渡せない。

これは人間に残された最後の不便であると同時に、人間同士にしか渡せないものが確かに残っている、というそんな強力な証でもあるはずです。

昨日から今日にかけて、ものすごく複雑でわかりにくい話を書いてしまった自覚はあるのですが、どうか今日のお話が少しでも伝わっていたらほんとうに嬉しいです。

同じ「AIを活用する」であっても、まったく別の未来が待っているはずですから。

仲間と助け合うためにこそ、AIを全力で活用したい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。