先日、Xでも話題になっていた最所あさみさんのポストをきっかけに、とても興味深いニュースを知りました。
AnthropicがLinkedInで「Standards Editor(スタンダーズ・エディター)」という編集職を募集していて、その年収がなんと26.5万〜29.5万ドル。日本円にして4000万円を超える金額です。
世界最高峰の文章生成AIをつくっている会社が、人間の編集者を、脳外科医より高い給料で雇おうとしている。このニュースはアメリカでも「皮肉だ」と話題になっていたそうです。
AIに文章を書かせる会社が、その文章を直す「生身の人間」を探している。しかも大金を積んで、です。
でも僕は、この求人を実際に読んでみて、これは皮肉でもなんでもないなと思ったんです。
むしろこれは、AI時代に人間の仕事がどこへ向かうのかを、世界でいちばん正直に白状してしまった求人なんじゃないかと。
今日はそんなお話を少しだけ。
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まず、求人票には具体的に何が書いてあるのか、Fableに調べてもらいました。
まとめると、昔ながらの出版社の校閲デスクにかなり近い仕事だそうです。書き手の意図を殺さずにハウススタイルに整え、複雑な発表を明快な文章に磨き上げ、カンマひとつ、迷子にさせずに公開まで持っていく。
では、生成AIの会社が、なぜこんな古典的な職種に、4000万円を払うのか。
海外メディアがこの求人を評したという言葉が、とても的確でした。
「生成が安くなるほど、その公開の『判断』が高くつく」のだと。
文章を生み出すコストは、もうほとんどゼロになりました。AIは一晩で何百本でも記事を書けます。
でもだからこそ、「これは世に出していい文章か」という最後の人間の判断の値段だけが、逆にどんどんと吊り上がっていくわけですよね。
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ただ、この「判断」という言葉だけでは、まだ半分しか説明できていない気がして、この求人の背景についてFableに直接聞いてみました。
すると、自分の会社のことにもかかわらず、なかなかに辛辣な返答が返してきたのです。
(以下、Fableの回答です)
生身の人間にしか今のところ担えない二つの機能——「趣味判断(これは我が社の声として世に出してよい文章か、という最終的なテイストの裁定)」と「責任の宛先(間違いが起きたときに問い詰められる相手が存在すること)」——です。
AIは判断を出力できますが、判断の結果を引き受けることができません。つまりこの求人は「人間らしさの演出」を買っているのではなく、「引き受ける能力」を買っている。年収4000万円の内訳は、文章力が半分、残り半分は首を差し出す対価、というのが私の見立てです。
自分の生みの親の会社の求人を、ここまで身も蓋もなく解剖してみせるのかと、これこそ皮肉そのものだなと。
そして、この「責任の宛先」という言葉を目にした瞬間、僕の中で真っ先に蘇ってきたのが、今年の3月に自分がサロンの中に書いた短い投稿でした。
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当時の感情がそのまま伝わるように、そのまま引用してみます。
(以下、当時の投稿です)
AIを触っていると、人手が不要だと思う場面がドンドンと増えて「これは本当にひとが要らなくなっちゃうじゃん…!」と思う場面だらけの一方で、
「じゃあ、これからどんな時にひとが必要になるんだろう?」と考えると、「責任の主体」としての人間(人材)が必要になるんだろうなと思う。
誰がプロンプト(指示)を打ったのか、誰の責任のもとのAIの行動なのか、という場面においてのみ、人間という存在が必要になる。
これって何かに似ているなと思うと、闇バイト。闇バイトの受け子と一緒だなと。
きっとこれからのAI活用のホワイトカラー業務も、そうなっていく。
グレーなAI活用や、クレームが起きやすいときのAI活用のために、人間がAIの飼い主として雇われる世界線、間違いなくあるなあと思う。
半年前のこの予感が、今回の求人票で答え合わせされたように感じました。
しかも、闇バイトとは正反対の、いちばん明るくて高い側から、答え合わせが来たわけです。
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AIがどれだけ賢くなっても、どうしても人間に残る役割がある。それは「責任の主体」になることです。
それは言い換えると、何かが間違ったとき、世間が問い詰めるための相手。「誰の責任だ」という請求書や逮捕状の送り先、ということです。
当然ですが、責任というものは、構造やシステムには請求できません。
必ず、顔と名前のある生身の誰か、個人に宛てて請求される。
だからAIがすべてを実行する時代になればなるほど、逆説的にその「宛先」としての「責任の主体」になれる「生身の人間」の需要が生まれてくるし、その価値が爆上がりする。
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もうひとつ。冒頭のFableの回答をXに投稿したとき、僕は思わず「なんだか東條英機みたいな役回りだ」と書き添えてしまいました。
あれは半ば冗談のつもりだったのですが、でも結構本気でもあります。
以前このブログで、映画『開戦前夜』の話を書きました。
参照:空気を読むAIと、決めたくない日本人の相性が良すぎる。
総力戦研究所という「人力AI」が「日本必敗」という正確な答えを弾き出したのに、誰もその結論を引き受けなかった。
でも、戦争が終わったとき、世界は「誰も決めていませんでした」では、決して納得しません。
システム全体の出力に対して、絞首台に立つのは、顔と名前のある個人でなければならなかった。
だからこそ、責任の宛先は、事後的に用意されたんです。
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東條英機は、開戦を止める実質的な裁量権を持っていなかった(と、少なくとも本人は東京裁判の法廷で主張しました)。空気に逆らう権限がないまま、責任だけを請求された。
裁量権とセットで引き受ける責任は、職業です。
一方で、裁量権のないまま押し付けられる責任は、生贄です。
そして闇バイトの受け子とは、この「生贄」を市場で調達する仕組みなわけですよね。
受け子には何の決定権もありません。計画も報酬の配分も、全部上が決める。
彼らが提供しているのは労働力ではなく、捕まる係としての身体だけです。
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そして、この受け子という存在を、逆側から、つまり親玉の側から眺めてみると、もうひとつ別の景色が見えてきます。
もし闇バイトの組織に、実行犯という現場レベルの「責任の主体」がいなかったら、実際にはどうなるか。
警察の捜査は一発で経営者、つまりトップに到達してしまいます。
ところが、そこに組織のヒエラルキーが存在して、現場レベルでの「生身の人間の判断」が挟まっていたとなれば、話がまったく変わってくる。
何重にも重なった意思伝達の層が見事に緩衝材となって、結果的にトップを守るんです。
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この点、ちょうど最近、映画『東京裁判』を観たばかりでした。
あのドキュメンタリー映画の中で描かれていたのも、まったく同じ構造です。
もし昭和天皇が、すべてを自らの配下にあるAIに実行させていたら、天皇の意図や本心は関係がなく、東京裁判で、まっさきに処刑されていたのは、ほかでもなく昭和天皇だったはずです。
でも、現実にはそうはならなかった。なぜなら、側近たちが勝手にやったことになったからです。
大臣が、軍部が、参謀が、そんな責任の主体になれる顔と名前のある「生身の人間」の判断が何層にも挟まっていたからこそ、責任の雷は、玉座に届く前に、一段ずつキレイに吸収されていった。
東條英機とは、その避雷針のいちばん先端に立たされた人の代表的な名前だった、とも言えるわけですよね。
つまり、人間の組織というのは、責任の絶縁体を何層にも重ねた構造物なんです。
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では、AIはどうか。
AIは、責任をまったく吸収しません。全部素通りです。
ちょうど今、とある有名な伝説的エンジニアの方のnoteの無断転載の件がXで話題になっています。
あれはどう見ても、ご本人が直接手を動かしたのではなく、その方の使っていたAIエージェントが暴走し、勝手にやってしまっただけであることは明白です。
それでも、責任は一切減衰することなく、100パーセントそのまま、ご本人に直行するわけですよね。
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これがもし、現場の部下のやったことだったら、話はまったく違うはずです。
会社という組織があいだに入り、社内で事情を調整し、実行した当人だけを処分して、「再発防止に努めます」と頭を下げるだけ。
組織という層の中で、責任は分散され、薄められ、儀式として処理されていく。
でもAIには、その切るためのクビがないわけです。
「原因となったエージェントは停止しました」と公に発表したところで、誰も許してくれない。
生身の人間がひとりも挟まっていないから、責任の雷が、まっすぐトップ、つまりAIに指示をした本人にダイレクトに落ちる。
警察だって裁判官だって、AIに直接指示したトップ、その本人を罰する以外に方法がなくなってしまうわけです。
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ここまでの話をまとめると、人間は責任を避雷針的に吸収してくれるけれど、AIは責任を素通りさせてしまう。
そして、この違いに、世界のトップ企業はもう気づき始めていると思います。
その証拠のひとつが、海外のサイバーセキュリティ企業、具体的にはクラウドストライクやパルアルトネットワークスの株価です。
AIの進化で「SaaSは死ぬ」と言われ続けているのに、セキュリティ企業だけは死ぬどころかむしろ需要がグングンと高まっていて、株価は最高値を更新し続けている。
じゃあそれは一体なぜか。
彼らが売っているのは、ソフトウェアではなく、「責任の宛先」だからだと僕は思っています。
セキュリティ対策そのものは、もう自社のAIにやらせることだって技術的には可能かもしれません。でも、それが最新AIでハックされたら、責任は素通しで、自社に直撃します。
一方、外部の名の通ったセキュリティ企業の製品を導入しておけば、最新AIによってハックされたときでも「我々は業界標準の対策を講じていた。問題はあちらの製品にあった」と、指を差せる先ができる。
企業は、そんな避雷針こそを買っているんです。
そして、この避雷針ビジネスの人間版こそが、Anthropicのあの求人なのだと思います。
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AIは、「責任の主体」という、そんな生首を差し出すビジネスを、一気に主流のビジネスモデルへ格上げしてしまう。
Anthropicのエディターには、赤ペンという名の拒否権が明示的に与えられています。「この文章は世に出せない」と言える権限とセットだから、あの責任は職業として成立している。
でもそれは、重たい責任とセットであることは間違いなくて、万が一何か責任問題が起きれば、A級戦犯として、東京裁判とまったく同じような立ち位置に立たされてしまう可能性があるということです。
逆に言えば、そのための地位と権力と名誉が、先に与えられる。
そうしないと、下っ端を切ったところで、世間がまったく納得してくれないから、です。
つまり、そのクビを切ったときに世間の怒りが収まるような人間を、最初から立てておかなければいけない。
だからこそ、わざわざ高給で、しかもそれ自体が広く世界中でニュースになるような形において、自社に迎え入れなければならない、ということなのだと思います。
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さて、ここまで書いてきて、ずいぶん暗い話になってしまったなと自分でも思います。
このまま終わってしまうと「AI時代、人間の役割は、クビを差し出し、吊るされ役として生き残るだけ」という何の救いのない結論になってしまう。
でも実は、この話には、もうひとつのまったく別の側面があると思っています。
責任の宛先になることは、呪いであると同時に、まわりの人間への「贈与」にもなりうる。
そのことを僕に教えてくれたのは、今年の3月、ちょうどサロン内にあの投稿を書いたとき、同じ頃に収録をした、F太さんとのVoicy対談でした。
AI時代、僕らは本当は、どんな関係性を大切にしていかなければいけないのか。そして、戦時中の組織の失敗から、僕らはいま何を学べるのか。
そんな続きのお話を、明日のブログで改めて書いてみたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
