佐田さんのSubstackの投稿を読んで、Substackがなんだかまた少し好きになりました。
Masato Sata (@mst727)
ちなみに、佐田さんは、僕にとって心から信頼できる長くお付き合いしているクリエイターのおひとりです。
いま自分が何を感じていていて、どこに違和感を覚えているのか、何に可能性を感じているのかをいつも、とても丁寧に言葉にしてくれる方だなあと思っています。
そんな佐田さんが、Substackについて、こんなことを書いていたのです。
Substackで文章を書こうと決めた理由の一つが、創業者も葛藤しながら、読者と一緒に、新しいメディア文化を作ろうとしてるんだなあと感じたことにある。
この一文が、すごく印象的でした。
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というのも、Substackという場所に、僕もなんとなく惹かれてはいたのだけれども、その理由をなかなかうまく言葉にできずにいたんですよね。
新しい発信場所だからとか、ブログが読まれやすそうだからとか、、そういう説明はいくらでもできるんだけれど、どれも少しだけ表面的な気がしてしまう。
本当に自分が惹かれている理由は、もう少し別のところにあるような気がしていたんですよね。
その「もう少し別のところ」を、佐田さんはきれいに言い当ててくれていたのだと思います。
書き手だけの話ではない、読者だけの話でもない。創業者も含めて、誰もがまだ正解を知らないまま、それでも一緒に新しい文化を耕そうとしている。
その葛藤する感じが、今たまらなくいいんだよなあと。
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佐田さんの投稿の中で、もうひとつ印象に残ったのが、Substackの共同創業者であるハミッシュ・マッケンジーが、自分たちのつくっている場所を「庭(庭園)」と呼んでいる、というくだりでした。
詳しくは、ぜひリンク先のブログを翻訳しながら直接読んでみて欲しいのですが、ニュースレターの配信サービスとしてではなく、書き手と読者が信頼でつながっていく「庭」のような生態系として、自分たちはこの場所をつくっていきたい、そんなようなことをSubstackの創業者は語っています。
そのなかに「信頼の根のシステム」という比喩があって、ここに僕はかなり惹かれてしまいました。
具体的には、誰が誰を信頼しているのか。どんな読者が、どんな書き手の言葉を読み続けているのか。誰かが誰かを紹介し、その紹介を通じて、また別の読者が流れ込んでくる、というような。
そうやって、目には見えにくい信頼の根のようなものがが、土の中でつながっていく。それは、決してバズの数字や売上の数字など、表面化されるものではないわけです。
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で、ここで僕は自分が以前から使ってきた「情報の交差点」という言葉と重ねてしまいました。
インターネットの魅力は、単に情報がたくさんあることではなく、思いがけない人や言葉と出会えることにある。
直接の知り合いではないけれど、同じ時代を、似たような問いを抱えながら生きている人の気配のようなもの感じることができる、そんな場所を、僕はネット上にずっと求めてきたのだと思います。
だからこそ、初期のころのTwitterにも惹かれてきたし、ブログも15年近く毎日書き続けてきて、Voicyでもそれを日々発信してきました。
でも、いま思うと、「情報の交差点」という言葉だけでは、少し足りなかったのかもしれない気がしています。
交差点には、たしかに偶然の出会いがある。でも、交差点には、時間が積もらない。どうしてもコンクリート的なイメージで、そこに根を張ることができない。
また、立ち止まることはできるけれど、腰を下ろすことはむずかしいわけです。声をかけることはできても、黙って同じ景色を眺めることはできないわけですよね。
そこに、「庭」という比喩が、スッと入ってきました。
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情報の交差点から、庭園へ。
これは、僕にとってかなり大きな補助線だったように思います。
Substackを開いて、信頼している人たちが少しずつ文章を書き始めているのを眺めていると、更地の庭に対して、ぽつぽつと人々が種を植え、水を撒きはじめているように見えるんですよね。
人通りはまだ多くないないかもしれない。でも、ちゃんと緑と土の匂いなんかがする。ちょうどこの記事を書いているのが5月の中旬ですが、まさに5月のような新緑の匂いがする。
ここは、これから手を入れられる場所になるのかもしれない、そう感じたんだと思います。
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そして、庭づくりの肝は、設計図通りにはいかないわけです。
もちろん、最初にある程度の構想はあるかもしれない。このあたりに木を植えたいとか、ここに石を置きたいとか。
でも、庭は完全に管理するものではないですよね。むしろ、管理しきれないものと付き合い続けるために、日々手入れをするものなのだと思います。
で、ここで思い出すのが、養老孟司さんの「手入れの思想」です。
以前、Wasei Salonのブログで、養老さんの「手入れの思想」について、かなり丁寧に書いたことがあります。
そのときに改めて強く思ったのは、手入れというのは、対象を思い通りにコントロールすることではない、ということでした。
当然、目指すべき先が明確にあるわけでもない。
相手は自然物であり、完全に独立している。こちらの思い通りにはならない。でも、少しでもよりよい方向に向かってほしい。
だから、相手の反応をよく見てみる。そのうえで、ちょっと手を入れてみる。うまくいきそうなら、その方向を伸ばすし、具合が悪そうなら、別の方向を試してみる。
そうやって毎日、こうなると良いなと思うように手入れをし続けること、そうやって小さな試行錯誤を繰り返しながら、相手と一緒に変化していく。
それが、手入れの思想なのだと思います。
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この考え方は、Substackで書くことにも、かなり近い気がしています。
読者は、こちらの思い通りに動く存在ではありません。
読者は、数字でも、顧客でも、攻略対象でもない。それぞれに生活があり、関心があり、気分がある「他者」です。
だから、読者のニーズだけに合わせて書くのでもない。かといって、読者を無視して、自分の言いたいことだけを書くのでもない。
つまり、マーケットインでも、プロダクトアウトでもない。そのあいだにある、第三の道を探ることが大切。
具体的には、相手の独立性を認めながら、でも放置はしない。反応を見ながら、少しずつ手を入れていく。そのやり取りの中で、読者との関係も、自分自身の書き方も、少しずつ変わっていく。
それが、Substackという庭を手入れする、ということなのかもしれません。
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ただし、どうしてもインターネット上の発信はすぐにハックの話に回収されてしまいがちです。
どうすれば伸びるのか。どうすれば登録されて、有料購読につながるのか。
それらを考えること自体が悪いわけではないけれど、でもそれだけになると、庭は庭ではなくなってしまう気がするんですよね。
庭を手入れすることと、庭をハックすることは似ているようで、全く違う。
手入れは、相手の独立性を認めることからまず始まる。でも、ハックは、相手を自分の思い通りに動かせるという前提から始まってしまう。
この差は、最初にはあまり見えにくいんだけれども、時間が経つにつれて、庭の姿として見事に表れてきてしまう気がしています。
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あと、少し話が逸れますが、養老さんの手入れの思想で、僕がとくに大事だと思うのは、手入れを続けていると、対象から目が離せなくなる、という話なんですよね。
田んぼでも、庭でも、コミュニティでも、手入れをしようと思ったら、どうしても目が離せなくなる。
でも、それは不安だから監視をする、ということではありません。愛着があるから、自然と見てしまう。
昨日と少し違うところがないか、何か芽が出ていないか。そうやって目が離せなくなること自体が、手入れなのだと思います。
そして、手入れを続けることは、いつのまにか「自分自身に対する手入れ」にもつながっていくと養老さんは語ります。
ここが、以前そのブログを書いたときに、僕自身がいちばん強く響いたところでした。
庭を手入れしているつもりが、いつのまにか自分自身が手入れされている。自然と自己が整っていく。
手入れさせてもらうことで、自分自身が成長発展していくということです。
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ただし、ここで少しだけ書いておきたいのは、僕が庭をつくって、それをみなさんに対して一方的に見せたいわけではない。
むしろ、庭のそばにある縁側に座って、同じ方向を向いて、まだよくわからない庭を一緒に眺めるようなことがしてみたい。
向かい合って議論するのではなく、同じものを見る。正解を急ぐのではなく、季節の変化を眺めてみる。そうすることによって、本当の意味で共にいられる、と思うからなんです。
「これは一体何の役に立つんですか」と問い合う前に「まあ縁側に座ってお茶でも飲みましょう」と言い合いたいなと。
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ここで思い出すのが、以前ブログにも何度か書いた「喫茶去」の話です。
喫茶去というのは、禅の言葉。文字通りに言えば、「お茶を飲んで、立ち去れ」という意味にります。
僕は以前、この言葉について、「とりあえずお茶でもどうぞ」という労いと、「お茶を飲んだら、自分の場所に戻っていきなさい」という叱咤激励が、同時に含まれている言葉なのではないか、と書いたことがあります。
このふたつは、一見すると矛盾しているように見える。
でも、本当は、同じことを言っているように感じています。
目の前の他者の、「ままならない人生」をままならならいままに肯定する。そして同時に、その人がまた自分の場所へ戻っていくことを丁寧に励まして見送る。
これが、僕にとっての喫茶去精神です。
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Substackの庭も、そういう場所になればいいなと思っています。
「ここにずっといてください」ではない。もちろん、反応してください、や、課金してください、でもない。
読んでもらえたらうれしい。また読みに来てもらえたら、もっとうれしい。
でも、本当はそれ以前に、少しお茶でも飲むように僕が書いた記事を読んでもらって、そのあと、それぞれの生活に戻っていってもらえたら、それでいい。
それぐらいの距離感が、いまの僕にとっては、とてもしっくりきています。
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現代のインターネットは、どうしても読者のアテンションを奪い合う場所になりがちですからね。
どれだけフォロワーの目を引けるか。どれだけ反応や課金をしてもらえるか。
そういう設計のなかに、僕らは日々さらされている。
でも、文章は、読者の集中やお金を奪うためだけにあるのではない気がするんですよね。
むしろ、集中できない人生の途中で、少し腰を下ろすためにあるのかもしれないなと。
そんなときに、すぐに答えを渡すのではなく、少しだけ一緒にお互いの庭(問い)を眺める。そのあと、「じゃあ、またそれぞれの場所に戻りましょう」と送り出す。
この距離感が、Substackという庭にはとても合っている気がしています。
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考えてみると、Wasei Salonでやってきたことも、それに近かったのかもしれません。
読書会を開いて、誰かの文章や問いをきっかけにポツポツと話し出してみる。でも、すぐには結論を出さない。
それぞれの生活の中から出てきた言葉に対して丁寧に耳を傾け合いながら、はっきりした正解ではなく、その場に残る余韻や記憶のようなもののほうを大切にする。
Wasei Salonは、僕にとって大切な「家」や「母屋」のような場所です。閉じているからこそ、話せることがある。内側にいるからこそ、育ち続ける信頼関係がある。
一方で、Substackはもう少し外に開かれた縁側や庭のような場所になりうるのかもしれないなと。
完全な広場でもないし、完全な密室でもない。半分開かれていて、半分守られている場所において、お茶を飲みながら、眺める庭があること。
僕は、いまのインターネットに、そういう場所がもう一度必要なのではないかと感じています。
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僕にとってSubstackは、まだまだ小さな庭です。というより、まだ庭と呼べるほどのものですらないのかもしれません。
でも、それでも、十分に始める理由になる気がしています。
庭は、完成してから人を呼ぶものではない。言い換えると、庭はリバースエンジニアリングしてつくるものではない。養老さん風に言えば「なるように、なる」のが庭です。
だからこそ、手入れの途中を見てもらう。まだ何が咲くかわからない場所から、一緒に眺めてもらう。
そうやって、他者の視点が交わることで、自分ひとりでは見えなかった庭の見方が少しずつ増えていく。今回の佐田さんの言葉が僕にとってまさにそうだったように、です。
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何か明確なゴールや目標があるわけでもありません。むしろ、僕自身もまだよくわかっていない。
でも、わからないからこそ、日々、淡々と手入れしていきたい。
わからないものを、わからないまま置いておける場所にして、そこに少しずつ愛着が芽吹き育まれていくのをじっくりと待っていきたいなあと。
そんなことを考えながら、引き続きSubstackを使っていきたいなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
