先日、映画館で『トイ・ストーリー5』を観てきました。

「トイ・ストーリー」シリーズは、今作をつくってしまったことで、もう必ず次回作をつくらなければいけなくなったよなあと思います。

最新作は、予告編でも流れているように、こどものおもちゃとしての「タブレット端末」が登場します。

その新参者のおもちゃ・タブレット端末に子どもたちが夢中になってしまい、おもちゃたちがピンチに陥ってしまう。

もちろん、それがどうやって解決されていくのかは、映画を観てからのお楽しみとして。

今日このブログの中で考えたいのは、この作品をつくってしまった以上、次に描かれるべきなのは、AIがおもちゃに搭載された未来じゃないと、もう整合性が合わないよね、という話です。

ーーー

実際、ディズニーは、オラフのロボットを実物としてつくって、エヌビディアのイベントで登場させたという話もあります。

つまり、あと数年以内には、トイ・ストーリーの仲間たちのような存在が、この現実世界、まずはディズニーランドなどで本当に動き出す未来がやってくる。

そして、そんなおもちゃが世界中にばらまかれていく未来も、ほとんど確定している。

だとすれば、トイ・ストーリーの物語世界の中にも、それは必ず出てこなければいけないはずなんです。

そう考えると、たぶん『トイ・ストーリー6』では、子どもたちの前では絶対に動かない本物のおもちゃたちと、子どもたちの前でも平然と動いてしまう生成AI搭載のおもちゃたちが、全面対決することになる。

そこで初めて、おもちゃの「魂」とは一体何かというトイ・ストーリー全体の最終決戦が行われるのだろうなあと。

ただ、ここまで考えてみて、ここでひとつ、ものすごく大事な問いにぶつかりました。

それが今日のタイトルにもあるとおり、そもそも、なぜトイ・ストーリーのおもちゃたちは、子どもの前で絶対に動いてはいけないのか。

今日はまず、この問いから丁寧に考えてみたいと思っています。

ーーー

この点まず、物語上の設定としてはもちろん「おもちゃが動いていることがバレたら、大変だから」ということなのだと思います。

映画を観る子どもたちも、その暗黙のルールみたいなものをすぐに受け入れて、ハラハラドキドキしながらあの映画を楽しむわけです。

でも、本当にそれだけなのか。

もう少し大人の視点があるとすれば、それは一体何なのか。

それはきっと「贈与」の視点です。

この点、ウッディたちは、子どもたちの知らないところで、何度も命がけの冒険をします。迷子になっても、捨てられそうになっても、必ず持ち主のもとへ帰ろうとします。

でも、持ち主の子ども、たとえばアンディは、そのことをまったく知らない。ウッディが自分のためにどれだけ頑張っていたのかを、アンディは生涯知ることがないわけですよね。

彼が知っているのは、ただ「このおもちゃと遊ぶと楽しかった」という感覚だけです。

そして、ここにこそ、トイ・ストーリーという物語のいちばん美しい「秘密」があるような気がしています。

おもちゃたちは、子どもにたくさんのものを与えている。でも、「与えた」という事実そのものを、決しておもちゃ側からは名乗らないということです。

ーーー

この贈与の構造は、サンタクロースの話にも、とてもよく似ていると思っています。

クリスマスの朝に、枕元に置かれたプレゼントを見つけた子どもたちは、それをサンタさんからの贈り物として受け取るわけです。

もしそこで、親が「これはお父さんとお母さんが買ったんだよ」と言ってしまったら、プレゼントの意味はガラッと変わってしまう。

モノ自体はまったく同じであっても、それはもうサンタからの贈り物ではなく「親からの贈り物」になってしまうわけです。

もちろん、それが悪いわけではない。ただ、その瞬間に、子どもの側には少しだけ「ありがとうを言わなきゃ」とか「いい子にしていなきゃ」とか、そういう気持ちが生まれてしまうかもしれないわけですよね。

ーーー

言い換えると、贈り主が名乗り出た瞬間、贈り物はどこかで「取引」や「交換」に近づいてしまうんですよね。

「私があげました」と言われた瞬間に「では、あなたはどう返しますか」という問いが、うっすらとそこに立ち上がってしまうから。

だからこそ、サンタクロースは名乗らない。親は、自分が贈ったことを隠しつづける必要があるわけです。

そして子どもたちは成長してから、ある日ふと気づくわけですよね。「あれは、親がくれていたものだったのか」と。

その遅れてやってくる気づきによって、贈り物はようやく本当の「贈り物」となる。

ーーー

この「あとから気づく」という時間差の大切さを、僕に教えてくれたのは、みなさんもご存知、哲学研究者の近内悠太さんです。

近内さんは『世界は贈与でできている』の中で、このサンタクロースの例を用いながら、贈与は「これは贈与です」と名乗り出た瞬間に、贈与ではなくなってしまうのだと論じています。

その場ですぐに説明され、意味を与えられ、感謝まで求められてしまうものは、贈与ではない。

本当の贈り物は、受け取ったその瞬間にはそれが贈り物だとはわからず、時間が経ってから「あれは贈与だったのだ」と遅れて発見されるものなのだ、と。

ーーー

だとすれば、トイ・ストーリーのおもちゃたちが、子どもの前で動かない理由も、きっとここにあるのだと僕は思います。

「絶対に子どもの前では動いてはいけない」というあの鉄の掟は、単に「正体がバレたら困るから」というおもちゃたちの保身のルールではなく、むしろ贈与の匿名性を守るための子どもたちのためのルールだったのではないか。

おもちゃたちは、子どもに愛情を注いでいる。でも、その愛情を子どもに直接見せることはしない。

「僕たちは君のために、こんなに頑張っているんだよ!」とは口が裂けても言わないわけです。

だからこそ、子どもは、負い目なくおもちゃと「遊ぶ」ことができます。

「おもちゃに感謝をしなければいけない」なんて大人びたことは思わずに、ただ手に取って、自分の声を当てて、一緒に時間を過ごすわけです。

その何気ない「遊び」の時間の中で、おもちゃには少しずつ「命」が宿っていく。

ーーー

また、ここでめちゃくちゃ大事なのは、おもちゃの「魂」が、おもちゃの内部に最初から宿っているわけではないということです。

ウッディの魂は、ウッディの身体の中にある「何か」ではない。どうしても映画を観ている僕たちは、ウッディを人間のように見立てて、そう思いがちなんだけれども、でもきっとそうじゃないんだと思います。

じゃあ、ウッディの魂は何かと言えば、アンディ(持ち主)がウッディを手に取り、そこに独自の物語を与え、ブーツの裏に「ANDY」と名前を書いた、その関係性の中にこそ宿っているわけですよね。

つまり、おもちゃの魂とは、持ち主との関係性そのもののことだと思うのです。『星の王子さま』風に言えば「飼いならす」こと。

そしてその連綿とした関係性がバトンリレーのようにして受け継がれていくところにこそ「魂(と僕らが呼びたくなる何か)」が宿る。

それを描いているのが『トイ・ストーリー』という映画だと僕は思います。

ーーー

そして、これっていうのは人間社会とまったく一緒です。固有の人間の魂が、そこにあるわけではない、すべては関係性の中に存在する。

その記憶の積み重ねのほうに、そのひとの個性やアイデンティティ、人格が宿るということです。

そして、そこには「贈与」という仕組みや仕掛けが不可欠で、あとから「あそこに魂があったんだ」という形で遡行的に発見される。

というか、その構造ごと含めて、僕らはそれを「魂」と呼んでいるのだと思います。

ーーー

で、「トイ・ストーリー」シリーズの映画の構想全体の話に戻ると、だからこそ、これからそう遠くない未来に、AI搭載のおもちゃが登場したときに本当に問われるのは「それは偽物か、本物か」ではないはずです。

たぶん、もっともっとややこしい問題のはずなんです。

AI搭載のおもちゃは、子どもの前で「魂」を持っているかのようにして動きまわるようになる。

そして、子どもの名前を直接呼びかけて、面と向かって相手を認知している形において「あなたのことが大好きだよ」と言い、子どもの反応に合わせて優しく言葉を返してくれる。

それは一見、とても素晴らしいことのように思えます。

でもそれは、サンタクロースがプレゼントを渡した瞬間に「これは私が買いました」と名乗り出てしまうことにも非常によく似ている。

つまり、贈与であったはずの贈り物が、配達と同時に開封されてしまうわけです。

子どもが自分の想像力でおもちゃに命を吹き込み、あとからその時間の意味に気づいていくという大事なプロセスを、AIが先回りして全部勝手にやってしまうわけですから。

ーーー

だから、AI玩具が怖いのは、それが「まがい物」だからではないのだと思います。

むしろ、親切すぎるからこそ怖いんだろうなあと。

何も言わずに、ただそこに置かれていることや、子どもが自分の手で動かし、自分の物語を投影できる余白が残されていること。その余白の中で、はじめて魂のようなものが立ち上がってくるはずなのに、AI玩具はあまりにもなめらかに動き、その余白を先まわりして、すべて埋めてしまう。

それは「まがい物の魂」というよりも、魂が生まれるための条件を、先回りして全部消してしまう存在ということなのかもしれません。

そう考えると、「子どもの前では動かない」というあの鉄の掟は、単なるファンタジーのお約束ではなく、贈与を贈与のままにしておくための必死の「名乗らなさ」だったことになります。

おもちゃたちの沈黙こそが、本当の意味での愛の形だったのだと。

ーーー

もし『トイ・ストーリー6』で、AI搭載のおもちゃが登場するなら、脚本家たちはこの鉄の掟を、シリーズで初めて真正面から問い直さざるを得なくなるはず。

なぜ、子どもの前で動けることが、必ずしも正当なおもちゃの進化ではないのか、と。

ディズニー自身が、これからAI搭載のロボットやおもちゃを売る側に回っていくのだとすれば、単純に「AI玩具は悪者です」という物語にもできないはずです。

そんなことをしてしまったら、自分たちの「これからの商売」を完全に否定することになる。そしてAI搭載のおもちゃをつくらないという選択肢は、ディズニーにはない。ここが資本主義の世界である以上は、です。

だからこそ、そこにはものすごく「居心地の悪い問い」が生まれてくるはずなんです。

子どもに本当に愛されてしまったウッディそっくりのAI玩具を、ウッディたちは「まがい物」と呼べるのか。

子どもの前で動かないことを選び続けるおもちゃたちは、AIによって動けてしまうおもちゃたちに一体何を語るのか。

そして、1世紀という長い期間「ディズニー映画」でずっと楽しませてきてもらった観客である僕らは、そこに一体何を見出すのか。

ーーー

あと5年後なのか、10年後なのかはわからないけれど、でもきっといつか『トイ・ストーリー6』は必ずつくられる。

今回、映画のなかに「タブレット端末」を招き入れてしまったことで、次回作をつくる宿命を背負ってしまったと言っても決して過言ではないと思います。

そのとき、トイ・ストーリーという物語は、おもちゃの魂とは何かという問いに、シリーズ全体を賭けて答えなければいけないことになったわけですし、それはディズニーという会社、その存在意義や実存を問うような壮大な物語になるのだろうなあと思います。

だからこそ、それを観ないと死ねないなと思っています。

ぜひその壮大な前哨戦としての『トイ・ストーリー5』は映画館で観てみてもらえると嬉しいです。そうすればきっと、今日の僕が何を言いたいと願ったのか、それをより深く理解してもらえるかと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。