先日、Wasei Salon内で、るるさんが主催してくださって「本音と敬意」をテーマにした対話会が開催されました。

https://wasei.salon/events/0b3f873210c8

いつもの読書会とは大きく異なり、一冊の本を囲む会ではなく、それぞれが自分のなかにある言いづらさや、ちゃんとした自分を演じてしまう違和感みたいなものを持ち寄る、そんな腹を割った対話会になったように思います。

で、その対話会のなかで、僕は自分でも驚くほどまた自然に「足は踏まさるものだ」という話をしてしまいました。

やっぱり改めていま大事な観点だなあと思うので、今日のブログの中でも考えてみたいと思います。

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まず、この「足が踏まさる」という表現は方言であり、標準語に直せば、きっと「足を踏んだ」「足を踏まれた」になるのだと思います。

でも、それだと何かが決定的に異なる意味になってしまう感覚がある。

「踏んだわけでもなく、踏まれたわけでもなく、踏まさった。」

この言葉じゃないと、あの場で話していたこと、そして僕が最近心底大事だと思っているそのニュアンスは完全には捉えきれないなと思っています。

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すでに、ご存知の方も多いかと思いますが、北海道や東北の方言には「押ささる」や「書かさる」のような「〜さる」という表現があります。

押そうと思ったわけじゃないのに、ボタンが押ささってしまった。

ここにある意味合いや含みとしては、「自分がやったことは間違いない。にもかかわらず、自分の作為だけでそうなったわけでもない。かといって、誰かにやらされたわけでもない。」そんなあいまいなニュアンスが込められています。

この、なんとも言い表しようのないあいまいな表現が、僕は昔から漠然と大事な感覚だと思っていたんですよね。

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で、なぜこの話を今回も持ち出したかというと、「足を踏む」と言えば必ず誰かが加害者になり、「踏まれる」と言えば、誰かが必ず被害者になってしまうからです。

Xではそんな加害者探しと被害者探しの議論が毎日無限に繰り返されていますよね。

もちろん、悪意ある言葉や振る舞いまでを「踏まさっただけ」で済ませてはいけない。

そこは絶対に間違えてはいけません。

ただ、その日常の対話や共同体のなかで起きる小さな接触の多くは、もう少し複雑だと思うのです。誰かが悪意を持って言ったわけではないのに、相手の足が踏まさってしまった。

言った本人も、言うつもりで準備していたわけではないのに、その場の流れに押し出されるように言葉が出てしまった。

俳優・佐藤二朗さんの今回の一件なんかも、まさにそのすれ違いによって起きているように僕には見えます。

現代は、多様性によって、逆説的にお互いの傷が見えにくい世の中だからこそ、それが起きやすい世の中だなとも感じる。

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で、先日サロン内で配信されたコミュニティラジオでも、まさにそんな場面がありました。

サロン内限定のラジオなので、あえて内容はぼかしますが、おふたりのメンバーが話していて、最後の最後に片方が少しだけ踏み込んだ言葉を差し出した。

でもそこに悪意なんてものは微塵もなくて、あとからご本人も「その場の打ち解けた雰囲気に乗せられて、言わさってしまっただけ」と振り返っていました。

受け取った側も「その雰囲気と流れが、パズルをはめるように出てきたような感触だった」と。

まさに、言葉が言わさった瞬間だったのだと思います。そしてその結果として、相手の足も少しだけ踏まさった。

僕はあのやりとりを聞きながら、これこそが本音と敬意がうまく混ざり合った状態なんだろうなあと思って拝聴していました。

ラジオ内で直接対話をしていたお二人だけではなく、聴いているコミュニティメンバーにとっても、素晴らしい体験になっただろうなと感じます。

そして、僕がこのWasei Salonという場を通して、心からつくりたかったと願っていた対話の空間がまさに顕現した瞬間でもありました。

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この点、「本音」と言えば、僕らはつい「勇気を出して言うもの」だと考えてしまいます。

でも、本当に大事な本音ほど、そんなふうに明確な意志を持って「言う」ものではないのかもしれません。

その場がそこまで来てしまったから、相手の表情や沈黙や、ここまで積み重ねてきた関係性に押し出されて、ふっと出てしまった言葉。そういう言葉のほうが、よっぽど無意識の「本音」に近いことがあるよなあと。

ただしそれは、内側に溜まっていたものを好き勝手に吐き出す「ぶっちゃけ」とはまったく違います。

むしろ相手のことをちゃんと見ていて、その場を大事に思っているからこそ、ここで黙っているほうがかえって不誠実になってしまう、そんな瞬間に、言わさる言葉だと思います。

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だとすると、僕がこのサロンのなかでしつこいぐらいに繰り返してきた「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」という言葉は、足が踏まさる可能性をゼロにするためのものではないはずなんですよね。

そうではなく、むしろ足が踏まさってしまったときに、その出来事をすぐに悪意や攻撃として処理せずに、「いま、何かが起きたね」と一緒に立ち止まるためのもの。

すべての接触を防ぐための予防策や「壁」ではなくて、接触が起きたときにお互いの関係性が修復不可能なほどに壊れてしまわないための柔らかさや柔軟さ、と言ったほうが近い気がしています。

敬意や礼儀が場のなかで強くなりすぎると、みんなが「ちゃんとした自分」を演じ始めて、確かに場は穏やかになる。誰の足も踏まれない。

でもその代わりに、何かが少しずつ死んでいく。

最近の僕が「魂」と呼びたくなっているのは、きっとその「何か」のことです。

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とはいえ、正直に書いておくと、「踏まさる」は、とても危うい言葉でもあるなという自覚もあります。

ものすごく無責任な言葉ですからね。

いつだって「言わさってしまっただけ」「踏まさってしまっただけ」と言えば、自分の作為性は、極限まで薄まります。

責任の概念を、最初から手放せてしまう「都合の良さ」もそこにはあるわけです。

だから僕は、この概念が大事だなと思いつつも、この言葉を、そういった免罪符には絶対にしたくない。

足を踏まれた結果、痛かったものは痛かったし、傷ついたものは傷ついた。そこをなかったことにするための言葉では決してないはずです。

ただ、その痛みをすぐに「あなたが踏んだ」「私が傷つけられた」という加害と被害の物語に固定化してしまう前に、一度だけ「いま、何が踏まさったんだろう?」と一緒に眺めてみることができないのだろうか、と。

責任を消すのではなく、責任を急いで確定させないための猶予のようなもの。この言葉のなかには、それが確かに含まれているような気がします。

そして、踏んだ自覚があればすぐに「ごめん、踏んでしまった」と素直に謝ることができて、そのうえで踏まれた側も「大丈夫、悪意がなかったことはわかっている、続けて。」と言い合える、そんな関係性が理想だなあと。

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あと、僕がこの方言にどうしてもこだわりたくなってしまうのは、たぶん北海道から東北にかけての大自然、特にあの冬の抗えなさに対する諦観のような感覚が、この言葉の成り立ちにこもっていると感じられるから、なんですよね。

人間の意志によるコントロール可能性を、最初から手放している感じと言えば伝わりやすいかもしれない。

自然への畏敬を通り越した、畏怖の念みたいなもの。つまり手放しているというよりも、手放さざるを得ない諦観みたいなものも混ざっている。

で、だったら、そんな大自然のなかに住む必要なんてないはずなのに、それでも色々なやむにやまれぬ事情があって、住まざるを得ない、つまり開拓せざるを得ない人間側の事情がある。

まさに、気づけば「住まさった」という状態なんです。

このあいまいさには、意志と優しさその両方が含まれているし、なんでそんなところに住んだんだ!とか、住んだのは自己責任!と言いたくないし、言えない諦観みたいなものも宿るなあと。

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そもそも、この大自然極まりない日本には、ずっとこの感覚があったのだと思うんですよね。

具体的には、人間の事情だけでは、どうしようもできない自然に対しての恐怖。そのことに対する畏敬の念。

古事記でいうところの「つくる・うむ・なる」の三類型で言えば、限りなく「なる」に近い感覚です。

そして対話の場も、コミュニティも、本当は「なる」ものなんだろうなあと。

少なくとも、日本人の僕らが抱いている「場」への敬意と畏怖の念は、きっとこのあたりに起源があるように感じています。

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西洋から入ってきた哲学対話のように、あらかじめテーマを決めて、場を整えて、安心して話せるように設えることは確かにできる。

でも、そこで実際に何が起きるのかは、主催者にも参加者にも、誰にも決めきることはできない。

実際、今回の対話会も、誰かがきれいな答えを出したわけではありませんでした。みんなが言い淀みながら、その場に押し出されるようにそれぞれの言葉を差し出していて、ときどき足が踏まさっていたことは確かです。

でもそこには、人間が深く対話しコミュニケーションをしようとする以上、必ず「足は踏まさるもの」という共通の前提が確かにあった気がしています。

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僕は、Wasei Salonを、誰の足も踏まさらない場所にしたいわけではありません。

そんな場所はたぶんこの世に存在しないし、もし存在したとしても、そこからは人間の一番大事な何か、つまり魂が失われてしまう。

そうではなくて、「踏まさった」としても、そのうえでもう一度関係を結び直せるような場所でありたい。

そうやって、自分のこころの声に耳を澄ました結果として、それぞれの魂がちゃんと発露される場所をつくりたい。

そのための敬意と配慮と親切心が大事だと思うし、これはいつも語る「受け取り方の節度」の問題なんだと思います。

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で、さらに言えば、そのためには、誰かが先に始めなければならないんですよね。

自分から率先して、相手のことを信頼する。そこに保証や担保は存在しないし、あってはならない。

言い換えると、道産子の僕自身がネイティブとして獲得しているこの感覚というのは、必ずコミュニティを運営する上で役に立つと僕は信じていますし、そんな僕がコミュニティを立ち上げて運営をする意義は、まさにきっとこのあたりにあるはずで。

これも先人たちからの贈与であり、それを受け継いでいく責務、そしてバトンリレーな気がしています。

だからこそ、自分から先に、少しだけ敬意を差し出してみたいなと常々思い続けていますし、いつだって自分から先に、少しだけ本音を差し出してみたいなとも思っています。

そうやってこの場を、これからも敬意と配慮と親切心を土台にしながら、その結果として、それぞれの魂がイキイキするような場として、耕していきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、何かしらの参考となっていれば幸いです。