最近、東浩紀さんの以下のインタビュー動画を見ました。
https://www.youtube.com/watch?v=I7-4Jzw60N0
そのなかで、いちばん印象に残ったのが、「日本には、考えないことについて考えてきた伝統があるんじゃないか」というお話。
いまの時代に「考えないこと」を肯定するみたいな話は、一歩間違うと、ただの思考停止の礼賛にも聞こえてしまう。
空気を読めばいいとか、曖昧でいいとか、面倒なことから目を逸らしていいとか、そういう方向に簡単に滑っていってしまうような言葉でもあるわけです。
でも、不思議とその言葉が僕の中にはずっと残り続けています。
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この点、僕はこれまで、共同体とか対話とか、そういうことをずっと考えてきたタイプの人間です。
そして、そのような場において本当に大事なことって、実は「ちゃんと考えること」だけじゃないんだと思うんですよね。
もちろん、考えることは大事。自分の言葉で話すことも大事です。すれ違いを放置せず、ちゃんと向き合うこともほんとうに大事なこと。
とはいえ、だからこそ、それと同じくらい大事なことが「いちいち全部をはっきりさせなくても、共にいられること」なんじゃないかと、漠然とずっと思ってきました。
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たとえばWasei Salonのなかで、誰かが長い投稿を書くとする。
そこにはまだ整理されていない悩みとか、本人にもよくわからない違和感とか半分はかなり曖昧な気分みたいなものも混じっているわけです。
そういうときに、その場ですぐに「で、結論は?」「要するに何が言いたいの?」というモードになると、人はけっこう簡単に萎縮してしまうと思うんですよね。
あるいは、AIのように善意で「つまりは、こういうことですね」ときれいに要約してしまうのも良くない。
それ自体は確かに親切から端を発しているのかもしれない。でも、その人がまだ言葉にしきれていない何かを、そのまま雲散霧消させてしまうことにもつながりかねないわけです。
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で、僕はたぶん、そういう場をあまりつくりたくなかったんだと思います。
むしろ、すぐに整理をしない、すぐに正解を求めない。まずは少し曖昧なまま置いておける、そんな場が欲しかったんだろうなあと。
そして、その人の言葉が、その人の速度で出てくるのを周囲も余裕をもって、日々の日常や生活や仕事に集中しながら、待てるような間柄を構築したかった。
そういう良い意味で無視される空間のほうが、人は深いところから言葉を探してきて、なおかつまだその形も定まらない想いみたいなものを話しやすいと思います。
そしてたぶん、今の共同体やコミュニティに求められている役割って、案外そういうところだと思いますし、そういうところからしか、本当の共同体は育たないのだとも思います。
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で、冒頭でご紹介した東さんがインタビューのなかで語っていた、平和とは「人々が政治的にならなくて済む領域が、できるだけ広く確保されていること」なんじゃないか、という話も、僕はかなり近い感覚で聞いていました。
現代は、何もかもがすぐに意味づけされていく。
どこへ行って、何を買ったか。どんな表現を支持するか。
そのすべてに政治的な意味や倫理的な評価が貼りついてしまう。
もちろん、それによって見えるようになったこともある。昔は見逃されていた暴力や搾取構造なんかが、ちゃんと言葉にされ、主張されるようにもなったわけです。
だから、単純に昔に戻ればいいなんて話ではまったくないです。そこはくれぐれも誤解しないでほしいところ。
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ただ、その一方で、人間が「人間」でいるために必要な「避難場所」まで失われつつある感じがするんですよね。
何も考えずに、ただ好きだと思えること。理由を言わずに、なんとなくそこに居続けられること。
この場では、いまはまだ自分の立場を明確にしなくても大丈夫だと思える、そんな安心感。
そういう時間や空間のほうが、実は今すごく大事なんじゃないかと思います。
そして、僕はWasei Salonという場において、たぶんずっとそれを守ろうとしてきたんだと思います。
社会がどんどんと政治的に、かつ「自分の頭で考えよう!行動しよう!」と急かすようになってきたからこそ、です。
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もちろん、それは「ぬるい場をつくりたい」ということではない。何でも肯定する場所にしたいわけでもないです。
むしろその逆で、人がほんとうに深いことを話そうとするときって、最初から完全に整理された言葉では出てこない場合が多いのだから、それに出会うためにこそ、沈黙も同時に大事にしようよ、って言いたいのです。
本当の想いは、迷いながら出てくるし、大いなる矛盾も含んでいるし、本人だってまだわかっていない。その想いに出会えるためのアジールが必要なんだろうなあと。
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また、東さんはさらに、日本には「考えないことについて、考えてきた伝統」があるのではないか、とも語っていました。
ここが一番刺さったポイントかもしれません。
西欧では、考えないことをどう克服するかという方向で、文明や哲学が組み立てられてきた。でも日本文化には、むしろ考えないことを高く評価してきた感じがある、と。
そして、ここで東さんが出していた「Tシャツ」や「靴」の具体例の話がすごく重要だなと思ったのです。
それは一体どういうことか。
「公共性」と言えば、つい僕たちは言葉で対話することとか、立場を明確にすることとか、理性的に合意形成することを思い浮かべがちです。
もちろんそれは近代社会にとって大切な基盤だったし、いまでも必要です。
でも東さんは、公共性は言葉だけではなく、「モノの共有」によってもつくられるのではないか、と語っていました。
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たとえば、同じTシャツを着ているとか、同じ靴を履いているとか、そういうことでも人は「なんとなく一緒にいる」感覚を持てるんじゃないか、と。
この視点、僕はものすごく大事だと感じたのです。
たしかに人って、議論そのものでつながるわけじゃない。
先に、同じものを身につけていたり、同じキャラクターを好きだったり、同じチームの色をまとっていたり、同じ祭りの法被を着ていたり、そういうところから「こっち側」という感覚が自然と立ち上がることがあるはずです。
それは幼稚だとか、浅い同一化だと片づけられる話ではないと思うんです。
むしろ、言葉でぶつかる前に、ひとまず同じ場に立てるための、かなり重要なひとつめの足場だったんじゃないか。
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そして、日本って、まさにそういう「モノを通した公共性」をつくるのがうまかった国なんじゃないかと思います。
そういう公共性って、一見するとただの様式とか趣味にも見えがちです。でも実際には、言葉でぶつかる前に、「ここではこういうふうに一緒にいましょうね」という空気のほうを先につくってくれている。
逆の視点から眺めれば、「もの」を通してちゃんと人々が集えるようにと、そこに過剰なまでの職人魂と職人技を注ぎ込んで、機能性や美の要素をもたせてきた、それが日本とも言えそうです。
たぶん日本における公共性って、本来はそういうものだったんじゃないかと思うんです。
つまり、まず議論することではなくて、まず壊れずに、共にいられることの方をなにより優先する。完全に理解し合えなくても、ひとまず同じ場に座っていられること。
言葉で勝つことではなくて、言葉が育つ土壌こそをお互いに守り合うこと。
Wasei Salonでやってきたことも、結局はそういうことだった気がします。
まさに「和を以て貴しと為す」、かつ、そのあとに続く「忤(さから)ふこと無きを宗(むね)とせよ」なんだと思います。
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誰かが話したときに、すぐに正しさのジャッジが飛んでこないこと。まだ未整理な言葉にも、ちゃんとフラットに居場所があること。
そして、少し不器用でも、その人なりの仕方で場にちゃんと関われること。
これって、言葉の公共性だけではまず無理で、絶対につくれないんです。つくろうとすればするほど、逆に遠ざかってしまうもの。
むしろ、同じ場に集まったり、同じ時間を過ごしたり、同じ空気を吸ったり、ときには同じTシャツを着たり、モノや身体を介した共有のほうが、実現可能性は高い。
身体的な儀式なんかも、まさにそのためにある。
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そして、僕はこのあたりに、いまのAI時代ともつながる大きな問題を感じています。
AIは、言葉を整えるのがとてもうまい。要約も、整理も、論点の抽出も、AIの得意中の得意な分野です。
今はそれを誰もが無料で使える。だからこれからは「うまく説明する」「論点をきれいに並べる」みたいなことの価値は、相対的にどんどん下がっていく、無価値化されていくと思います。
そのときに、逆に希少になるものは何か。
僕は、それが問いを急いで閉じないでいられる力だと思います。しかもそれは、個人の資質や能力だけで決まるものではなくて、場の力、場の風土によって大きくかわってくるもの。
それこそが、まさに日本的な公共性の再編集でもあると思うんですよね。
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もちろん、古い共同体の悪習慣や同調圧力まで一緒に復活させてしまったら意味がない。
だから必要なのは復活ではなく、更新なんだと思います。
見えない抑圧には敏感でありながらも、それでも全部を政治化しすぎないこと。互いの説明責任を大切にしながらも、それでも説明しきれない部分を軽んじないこと。
そういう公共性を、これからは小さな共同体の単位でつくり直していくしかないんじゃないか。
僕はたぶん、その実験をずっとやっているのだと思います。
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東さんの言葉を聞きながら、僕はそんなことを考えていました。
また少し、Wasei Salonという実践の場のなかで、自分が守りたいものがハッキリしてきたように思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/03/26 14:22
「考えないこと」から始まる、日本の公共性について。
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