最近、「中年危機」という言葉をインターネット上で、よく目にするようになりました。

かつてインターネット黎明期を生きた、いわゆる「元祖インフルエンサー」世代が、今まさに40〜50代に突入しているからなんだろうなあと思います。

彼らが中年期を迎えたことで「中年危機」という言葉が頻繁に用いられるようになり、その実態や対処法について、多くの人が関心を寄せるようになってきたということなのだと思います。

そして、わかりやすい解決策があるような話でもないので、何度も繰り返し議論されるような話でもある。

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そんなインターネットの議論を横目に見ながら、以前からずっと気になっていた本のことを思い出しました。

それが河合隼雄さんの『中年危機(クライシス)』です。


正直なところ、初めてこのタイトルを目にしたときは「まだ早いかな」という気持ちが先立ち、存在は認識しつつも、意図的に後回しにしていたような本でした。

しかし、中年クライシスについて、これだけ様々な議論がネット上で交わされるようになってきた今、きっと何かの理解のヒントになるだろうと思い、手に取ってみることにしたんですよね。

そして、結論から言えば、この本をいま読んでみて本当に良かったなと思っています。

その理由は後ほど詳しく書きますが、昭和生まれの方には、今すぐにでも読んでいただきたい一冊だなあと思っています。

一方で、平成生まれの方にはまだ少し早いかもしれません。各人の年齢が、35歳を超えたあたりで、またふと思い出して、手に取ってみてもらうぐらいで十分だと思います。

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さて前置きが長くなったのですが、まずこの本は、河合隼雄さんの鋭い洞察力と、豊富な臨床経験に基づいて書かれています。

しかし、単なる心理学の専門書ではないんですよね。日本の作家が書いた様々な長編小説が、その具体例として用いられているのが特徴的な本です。実際章立ては、作品ごとに書かれている。

そして、単なる書評でもなくて、河合さんの臨床心理学の考え方や意見を補強するために、それらの作品がものすごく効果的に用いられている感じです。

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この本の中で、特に印象的だったのが「トポスと私」というお話です。

この概念は、中年期における自己認識の在り方を深く考えさせてくれる内容です。

早速、本書から少し引用してみましょう。

中年も少し年をとってくると、あらためて自分という存在に目を向けることになる。いったい自分というのは何者なのか。
もちろん、そんなことは誰しも若いときから、ある程度考えているものだ。若いときだって、自分というものを大切に思い、自分を生かしてゆきたいと思う。そして一般的にいえば、自分のやりたい職業とか、結婚したい相手などが見つかり、そのなかで自分を確立してゆくことになる。
それがある程度成功したとして、そのときに自分とは何かを考えてみると、それを支えてくれるものが、社会的地位や自分の能力や財産や・・・・・・いろいろあるにしても、それを測定する尺度が外側にあって、そのことによって相当明確に自分の位置を見定められることがわかる。


河合さんは、ここから「自己認識」の二つの異なるアプローチを対比していきます。

まず一つは、社会的地位や収入といった外的・普遍的な尺度による自己定義

たとえば、自分は「〇〇会社のxx課長である」と思うとき、その会社に対する世間一般の評価や、課長職というものに対する会社内での評価などに支えられて「俺もたいしたものだ」とか「まあ、そこそこやっている」などと感じることができる、というような話です。

そしてもう一つは、特定の場所や瞬間における深い個人的体験に基づく内的・個人的な自己定義があると語るのです。

前者の利点は、他者との比較が容易で、客観的な指標として理解しやすいこと。「年収」や「役職」といった尺度は誰にでも適用でき、順位づけが可能ですからね。

しかし、河合さんは、これだけで本当に「自分」を定義することができるのかと読者に問いかけます。

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そして、後者のアプローチについて、以下のような例を挙げていて、これが非常にわかりやすい表現になっています。

再び本書から引用してみます。

たとえば「私」とは、今ここに一人で山小屋の前に座って、高い山々の峰を見ている。それだけでまったく十分なときがある。これが「私だ」と感じることができるのだ。そんなとき、その山や空気や、そして自分の体の状況や、それらすべてが演然一体となり、「私」の感覚を支える。


この感覚は、他者との比較や一般的な尺度では測れない。

しかし、まさにこの「ここにいる私」という感覚こそが、自分の独自性を示すものだと感じられると河合さんは指摘してくれます。

この視座は、中年期を向かえる人々に対して、改めて「自分とは何か」を問い直す本当に良い機会を与えてくれるよなあと思うのです。

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そしてそんなふうに思わせてくれる場を、「トポス」と呼ぶのだと。

もちろん「場所」といっても、それは単なる具体的な地点だけではなく、それを取り巻く全体的なものの作用を受けているのであり、それはあるとき、ある人にとって特に重みをもつことがあるものだ、と。

だからこそ、各人のトポスを見いだし、そのトポスとの関連の中で「私」を定位できるとき、その人の独自性は、強固なものとなると河合さんは言います。

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もちろん、ここまでの話を読んできて、痛いほどグサグサ刺さるというひともいれば、何の話をしているのかさっぱり意味がわからないというひともいるはずで、後者のタイプのひとは、むしろ幸福な状況にいると思います。

実際、この本の解説部分は、養老孟司さんが担当されているのだけれど、養老さんも、このトポスの話を引用しながら「この文章に出会うまで、自分はこういう内容を意識したことは、私にはない。しかし中年の定義としても、みごとなものだと感じられる。そう思わない人は、たぶんまだ中年ではないのである」というふうに語っています。

刺さらなかったら、まだ中年が見えていない状況。そうであれば、青年期を思う存分に享受をしたほうがいい。

とはいえ、次第にこの話がわかるようにもなってくるはずで、このことと向き合うことがある種、中年の入口に立っているということなんだと思います。

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で、いまインターネットの中で中年危機の話が話題になるのは、人々があまり小説を読まなくなったからなのかなと、この本を読みながら思いました。

僕も、20代までは全く小説を読まなかったですが、30代に入ってから途端に小説がおもしろくなってきた。

特に本書で取り上げられている小説の中で言えば、夏目漱石の『門』と『道草』はとても強く印象に残っています。

これらの作品は、中年期の葛藤や迷いを本当に痛いほど見事に描いてくてれているなあと。

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ただ、注意すべきは、これらの小説が何かわかりやすい「解決策」を提示しているわけではないということなんですよね。

むしろ、人生の複雑さや、矛盾をありのままに描き出し、読者自身に考える機会を与えてくれるだけなんです。アポリアをアポリアのまま提示し、オープンエンドで話が終わってしまう。

でも、それこそが長編小説の良いところ。

また、本書をきっかけに、最近初めて読んだ、安部公房の『砂の女』も非常に印象的でした。

もちろん各所でその評判は聞いていたし、100分de名著でヤマザキマリさんが激推していたので、内容もある程度理解したつもりにもなっていた。

でも、実際に読んでみると、全く印象が変わる。本当に凄まじい本でした。ちなみに主人公は中年ではなく、まだ31歳の学校教員。でも、しっかりと中年の葛藤が描かれているなあと思う。

詳しくはぜひ、実際にこの小説をご自身で読んでみてください。

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最後に、改めて、中年危機にどう向き合えばいいのかも考えておきたいと思います。

思うに、何か「解決策を求めること」自体が、ある意味では的ハズレなのかもしれないということなんです。

言い換えると、そもそも解決策を求めたり、そういうことを欲したりすること自体が、中年危機においてはカテゴリーエラーの問いであるというか、そうやって問題を解決しようとしたときに陥るジレンマみたいなものが、まさに中年クライシスの問題の本質でもある。

そんなことを本書を読むと、非常によく理解できるような気がしています。

中年期の葛藤や不安は、青年期の問題のように、簡単に「解決」できるものではないということです。もちろん、ハック思考でどうこうできることでもない。ハックが通用しない世界の話。

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むしろ、それらの複雑な感情や経験をありのままに受け止め、自己理解を深めていくプロセスこそが重要で、それが「トポスと私」の話の中でも見事に描かれているなあと。

そのためのアプローチとして、小説を読むことが非常に有効だということなんでしょうね。

他者の「物語」を通じて、自分自身の内面と向き合う機会を得られるわけですから。

特に長編小説は、人生の複雑さや矛盾をじっくりと、そして時にはじっとりと背後霊のように、付かず離れずのような状態でまとわりついてきて、読者に深い洞察を与えてくれる。

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中年危機は「危機」と書かれているけれど、それは決してネガティブなものではないはずです。

むしろ、健全な人生の成長や成熟の過程のひとつなのだと思います。実際、河合さんもあとがき部分で「中年期」を以下のように定義しています。

中年とは魅力に満ちた時期である。それは強烈な二律背反によって支えられているように思う。男と女、老と若、善と悪。数えたててゆくと切りがないが、安定と不安定という軸でみると、これほど安定して見えながら、内面に一触即発の危機をかかえているように感じられる時期はないだろう。


この言葉が示すように、中年期は矛盾に満ちた、しかし同時に、いや、それゆえにと言ったほうが良いかと思いますが、非常に大きな可能性を秘めた時期なのだと思います。

「できることなら避けて通りたい、一生を青年期のような快活さで人生を終えたい」と漠然と思っていたけれど、ここを通らない人生なんて、なんてもったいない人生だとさえ、今なら本気で思います。

今日の話を読んで、少しでも興味を持ってくれた昭和生まれの方々は、ぜひ本書を手にとってみてください。

いつもこのブログを読んでくださったみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。