過去に何度もブログで書いてきたことがあるけれど、僕は人との待ち合わせがあると、仕事でもプライベートでも、必ず待ち合わせ場所の近くに、15〜30分前ぐらいには到着するように心がけています。

こういう話をするとすぐに、律儀なやつだと思われて「鳥井さんとの約束だから絶対に遅れられないと思って、いつもより早く来ました」みたいなこと言われちゃうんだけれども、別に人が遅れてくる分には全く気にしなくて、ただ単純に自分が安心したいだけなんですよね。

万が一、移動中に何か不慮のことがおきても30分ぐらいバッファーを取っていると、大体のことは回収できるし(実際にそれに何度も救われた)、移動中も気持ち的に焦らなくて済むのが単純に好きなんです。

オーディオブック好きとしては、移動中は時間のことは気にせずに、できる限りオーディオブックの内容にも集中したい。

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そして、その到着したあとの余白の時間を使って、次の打ち合わせや約束で何を話そうか、みたいなことを漠然と考えたりする時間が結構好きだったりします。

でも、ときどき、自分でも思うのです。

「こんなに早くついてどうするんだ…?もしこのスキマ時間がまとまって存在すれば、結構な大きな時間になるじゃないか」と。

で、きっとこのような疑問から、多くの人々が「効率的」に時間を使おうとするあまり、これらの小さな時間の断片を無駄にしている感覚に耐えられなくなって、きっとカツカツなスケジュールを組みがちなのだと思います。

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気づけばこの考え方が仕事全体にも敷衍されていき、日常はせかせかと働いて、できるだけ予定を詰め込んで、そのうえでまとまったバケーションをとるというような思考回路にもなっていくんだろうなあと思うのです。

でも、なんだかそうじゃないと思うんですよね。

ここからが今日の本題にも入っていきます。

果たして本当にそのまとまったバケーションが、本当の意味でバケーションなんだろうか?

むしろ、この待ち合わせ前の数十分の心の余裕、その積み重ねのほうが、なんだか僕としては癒やされ度合いが大きいなあと思ってしまいます。

というのも、時間というのは、等価ではなく、もっと瞬間的な「深さ」みたいなものがあると思うからです。

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もちろん、ギリギリのタイムスケジュールで働いて、そこからまとまったバケーションを取る方法を、僕自身も20代のころには試していたことがある。

実際に、そうやって何か明確なバケーションの予定が存在していると、それまでの数カ月はワクワクするし、それはそれで豊かなことだなあと思う。

でも最終的にはそれが一番疲弊する形なんじゃないのかなあとさえ、今は思うんですよね。

これは、平日の睡眠時間は少なめにして、週末に寝溜めするみたいなことにも似ている。とはいえ、もう科学的にも、人間は寝溜めできないことが立証されているわけですよね。

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なんだか少し話がそれてしまったので、待ち合わせに早く着くようにしているという話を戻して、

この点に関連して、村上春樹さんがエッセイの中で語られていてた話が、とてもおもしろかったのでご紹介してみたいと思います。

それがどんな話だったのかといえば、待ち合わせの前の半端な時間を「グリコのおまけのような時間」という表現で語られていたのです。これにとても共感を覚えました。

とても上手な比喩で、ものすごく腑に落ちるなあと思ったので『村上朝日堂    はいほー!』という本から少し引用してみたいと思います。

村上春樹さんご自身が一体どれだけせっかちなのかを語る話の中での、何気ないエッセイからの引用となります。

待ち合わせにもまず遅刻しない。いつもだいたい待ち合わせ時刻の十五分か二十分くらい前に現地に行って、その辺をぶらぶらして時間をつぶすことにしている。だいたいはレコード屋や本屋に入ることが多い。洋服を見ることもある。気が向くと、雑貨屋に入って鍋なんかを子細に眺めたりすることもある。どうしてまた鍋なんかわざわざ眺めるのか、僕にもよくわからないが、でもたまには鍋をしげしげと見るのも愉快なものである。予期せぬ発見があったりする。     
僕はこういう風にちょっと余った時間というのがとても好きだ。それはまるで人生に与えられたグリコのおまけみたいに感じられる。それはせっかちの故に生まれた余剰時間なのだけれど、こういう時には逆にすごくのんびりと心穏やかな時間を送れるから面白いですね。


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このお話は、本当にとってもよくわかるなあと思います。

鍋を眺めるシーンなんて、自分のことを密かに観察されて書かれたのかと思ってしまうレベル。

実際に僕も、鍋とかを見に行ってしまうことがある。(ハンズとかロフトとか無印とか、ほんとちょうどいいところに、ちょうどいい規模感であったりするんですよね。)

いまの自分には直接的には関係ないようなお店に入って、どうでもいいものを眺めているときの心の余裕は、日常の中には存在しないタイプの時間です。

そして、こういうときに村上さんがおっしゃるように、逆にすごくのんびりと心穏やかな時間になれるなあと。

とはいえ、もちろん書店があれば書店に行きます。ただ、そのときにも何か目的の本があるわけでもなく、ただ書店内をウロウロできる時間は、なにものにも代えがたい。

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で、きっといまこの文章を読んでくれている方々は、

「とはいえ、日常の中でも似たような時間を作り出せるでしょ!」と思うかもしれないだけれど、実はそうじゃないと思うのです。

これは、次に待ち合わせという明確な予定があるからこそ、可能となるマインドセットだったりもする。

ここが意外と多くのひとが気づいていないポイントなんじゃないかと思う。

そして今日の内容においてもかなりポイントになる部分です。

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というのも、次の予定があり、しかもそれが人との約束であり、決してそのタイミングにおいては自らの一存で覆すことはできないことが重要なんです。

つまり、他のことは何もできない、本当に完全な余白としての時間帯になる。

このときにはもう、次の予定だけに集中していて、ソレ以外のことは考えなくていい。

そして、それにはまだ少しだけ時間があるから、グリコのおまけみたいな存在として、自らのまえに立ちあらわれて来てくれるんですよね。

もしこれが、日常生活の中で存在していても、そのあとに何か別のことができてしまうなら、この時間を使って何か有益なことをなし遂げなければ、となるわけです。

待ち合わせにおいても、 1時間以上あると悩む。カフェに入って作業をしたり本を読んだりしたほうが効率的なんじゃないかと頭によぎる。

でもこれが30分以下だったら、本当にポッカリと穴のように空いた余白となり、余剰時間となり得るんです。

これって本当に、他には類を見ないような稀有な時間の種類だなあと僕は思います。

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で、一般的に、このように「目の前のことだけに集中する時間」の重要性を意識すると、何かそのことだけに特化した時間をつくりだしたくなるはず。

たとえば、禅寺に言って座禅を組むとかは、ものすごくわかりやすい。

もちろんジムや専用施設にいったりして、なにかプロの手ほどきを受けるなんかもそうですよね。

一方で、本当に大切なのは、日々のなかの小さな取るに足らない「生活禅」のほうだと僕は思うのです。

運動で言えば、日常の中のスキマ時間の散歩や軽いランニングみたいなもの。

そして、僕が思うのは、この待ち合わせ前の余剰時間は、まさに生活禅や日々のなかのスキマ時間として最適だと思うんですよね。

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もちろん、数字ではじき出した付加価値や効果効能で言えば、意図的に集中する時間を作り出したほうが、全体としての効果は高いのかもしれない。

でもそれだけに、ある意味でそれに執着しているような状態にもなりやすく、意外と同じようなトラップの中にいたりもするなあと思うですよね。

これは完全に余談なんですが、多くの人は逆に振り切ることが、主な解決策だと思っている。

でもそれは、南極にいたひとがその寒気に嫌気が差して、北極に行くみたいな話で(もしくは南国からハワイでもいいけれど)解決しているようで何も解決していない。

本当はもっと無理のない中庸を目指す必要があるはずなんだけれども、苦しいときほど逆サイドに振っちゃうのが、自分も含めて、人間の悪い癖だなと思う。

そして、ちゃんと実際に逆サイドに振れたことを確認して、安心し、解決したと誤解する。

でも何も本質的なこと、根っこの部分は解決していないから、また時間が経てば表面化してくる。表面的な落差や変化だけに執着しがちな人間の本当に悪い癖です。

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で、話をもとに戻すと、このような日常の中の些細なセルフケアが、本当の意味でのカギになると思うのです。

日々働き詰めで身体がバッキバキになってから、プロのところへ足を運び、何時間もプロの施術を受けるよりも、実は日々の数分のセルフケアのほうが圧倒的に重要みたいな話にもとてもよく似ていて。

そのセルフケアの、心の余裕版みたいなものが、まさに今日語ってきた「この待ち合わせ前の30分間」なんですよね。

グリコのおまけのような余剰時間、つまりは心の余裕みたいなものを日々の中で、こまめにつくっていくことが大事になるのだと思う。

少なくとも僕はそれが自分の中で、一番性に合っている「癒やしの時間」だなと発見しました。

これを確保し続けることで、日常の中でささやかな回復をし続けて、どこかスッキリとした気持ちになって、次の約束の場面にもフラットな気持ちで向かえる。

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なにより、そうしていることで、大きな浮き沈みがないのもいいなって思っています。

よく他人の動向を見ていると、大きなケア(バケーション)前に心身共に疲弊していて、モチベーションがだだ下がりみたいな状態のひとがいて、明らかに疲れ切ってしまっていて、パフォーマンスの半分も出せていないなと思うひとがいる。

もしくは、そうなることがわかっているからこそ、明らかにそれを覆い隠すために、完全なる躁状態で、アドレナリンが出まくりの人もいる。

それはどちらにおていも、付き合う側に神経を使わせちゃうなあと。

そうじゃなくて、淡々と変わらない日々を過ごすためには、小さな「生活禅」を大切にする。そのような時間を自ら能動的に迎えに行く。

そういうひとのほうが、一緒に居て純粋に気持ちが楽だなあと思います。

ということで僕は、引き続き意識をして「グリコのおまけみたいな時間」を大事にしていきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。