先日、シラスで配信されていた近内悠太さんと桂大介さんの対談動画『利他・ケア・傷の倫理学』刊行記念「ケアの訂正可能性、そして誤配と贈与」という動画を見ました。
これが、とってもおもしろかった!
有料動画、しかも7時間超えなので、詳しくはぜひ本編を直接観てみて欲しいのですが、このなかで「包摂」と「排除」の違いの話が語られていました。
今日はこの話を聞きながら、自分が考えたことについて書いてみたいなと思います。
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まず、この包摂と排除の違いは、お互いに「対話」をし続けられる状態にあるかどうか、だと語られていました。
相手との対話が続いている間は「包摂」であり、対話はもう続けられないと断ち切った時には、そこからはもう「排除」になる、と。
この辺りは、内田樹さんの「あなたのことがよくわからないから、もっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときにコミュニケーションは断絶するという話にも、非常によく似ています。
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で、面白いのはここからで、「包摂」の中にはさらに細分化されていて、相手の意見や相手が見ている物語(ゲームや劇)を「肯定」する場合と、「否定」する場合の2通りがある、と。
そしてケアというのは、基本的には前者です。
なぜなら、近内さんの書籍の中で、ケアの定義は「他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」だからです。
そして、利他とは「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」。
つまり、包摂し、かつ相手の大切にしている物語を肯定している状態が、本書におけるケアや利他が健全に機能している状態です。
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でも、包摂かつ肯定だけでなく、「包摂かつ否定している状態」もあるのではないか、というのが桂大介さんの主張でした。
逆に言えば、否定しているけれど排除はせず、包摂し続けている状態、つまり対話が続けられている状態はあるのではないか、ということです。
この指摘は、本当にとても素晴らしい発見だなと思いました。
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これは先日Twitterにも書いた内容なのですが、現代の普通や常識は、優しい顔で「あなたの居場所はきっとあるよ、それは決してここではないけれも」と、やんわり遠ざけること。
一方で、鬼のような形相で「おまえなんてどこに行っても居場所はない!その腐った根性叩き直してやる!」は、絶対にしてはいけないことになっている。
でも、どっちが本当の包摂なのかはわからないなと、僕は最近よく思っていて。
今日の話の過程を辿ってくると、この違和感の理由もよくわかるなと。
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つまり、前者は、相手の存在を肯定しながら包摂しているように見せかけて「あなたとの対話はもう継続しません」としたハッキリとした「排除」の論理であり、
後者は、「排除」のように見せかけて、「包摂の中にある『否定』である」と考えることができるんですよね。
だから、真に包摂しているのは、後者の方でもあると言えるのではないか? そんな問いが立つわけですよね。
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現代は、多様性によってそれぞれの物語が完全にバラバラになってしまって、どこに相手の地雷が埋まっているかわからない時代です。
たとえ、自分にとって嬉しいことを相手に施してみても、相手にとってはそれが完全に地雷かもしれないわけです。
だから、「自分の物語よりも、相手の物語を優先しましょう」というケアや利他のスタンスは何ひとつ間違っておらず、ものすごい正論なのです。
でも一方で、それが利他やケアだと思われている現代は、否定をした瞬間に、まだ包摂の最中で「対話の可能性」が残されている状態なのに、排除されたと思ってしまう人たちが一定数生まれてくる。
これが、「メンヘラ」の人たちの定義なのではないか、と近内さんがイベント中に語られていて、本当にそう思います。ここで僕はめちゃくちゃ強く膝を打ちました。
つまり、彼らは包摂かつ肯定じゃないと、自己の承認欲求が満たされない。
でも、それは完全に誤解なんです。
包摂しつつも否定があるということを、もっともっとちゃんと理解すること。それは、いまとても大切な視点だなあと思います。
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例えば以前、映画「銀河鉄道の父」に描かれていた、宮沢賢治の妹・トシが、ぼけて荒れ狂う祖父に対して、「きれいに死ね」と言いながらビンタをし、その後にきつく抱きしめるという、話をご紹介したことがあります。
あとは、ドラマ「不適切にもほどがある!」の話なんかもまさにそう。
昭和の父親が、現代にタイムスリップしてきて、令和のバラエティ番組で昭和オヤジとバカにされているシーンで、娘が居た堪れなくなって「父親をバカにしていいのは、私だけなんだ」と怒るシーンなんかもまさにそう。
相手のことを徹底的に否定をする、でも必ず対話をし続けるという態度の中に、本当の優しさや「包摂」があるはずなんです。
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現代の優しさというのは「包摂かつ肯定」ばかりになっている。
それは、一体なぜか。大きく分けて2つの理由があると思っています。
1つは、SNSの告発文化の問題です。
対話は継続中であり、状態としては包摂の中の否定にもかかわらず、そのタイミングでSNSで発信することで、簡単に弱者ムーブを取ることができるようになった。
つまり、相手から排除されたと思い込んだほうが、有利に働く場面が多くなったということです。
それによって、より多くの他者のアテンションを獲得できるようになった。つまり、勘違いしているメンヘラの声がSNSによって、より大きくなったわけですよね。
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もう1つはさらに厄介であって「知的労働」から「感情労働」へ、世の中の中心になってきているということです。
これは先日、友人の最所あさみさんがTwitterでつぶやかれていて、本当に慧眼だなあと思った話です。
彼女のつぶやきの内容を、ここでも少しご紹介しておくと、
肉体労働から知的労働へと移り変わっていったように、現代では知的労働から感情労働へと「稼げる仕事」がシフトしていっているのを感じる。そしてその大半が恋愛感情を根底にしたものなので、愛情が憎悪にならないギリギリのラインを見極める頭の良さと他者の感情を受け止められるメンタルの健やかさが感情労働時代における重要なスキルなのだろうなあと。
現代は、包摂し肯定することが「仕事」であり、そうすることで単純に儲かるし、AIの発展によって、もうそれしか人間の仕事が残っていない状態に近づいているとも言えそうです。
そして、この感情労働をもっと具体的な言葉で言い表してみると、相手の「傷」を一刻も早く見つけ出し、その傷から「相手の大切にしているもの」を察知すること。
そして、自分の物語よりも「相手の物語(劇やゲーム)」を優先すること。
そのような観察力や洞察力に優れてケアや利他ができる人たちが、大きな財をなすことができるような世の中になってきてしまっているわけですよね。
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これは言い換えると「一億総キャバ嬢・ホスト社会」みたいな話でもあって、一般の人々も、水商売やアイドルに近いことをやらざるを得なくなっている状態とも言えそう。
でもそうすると、その感情労働という圧倒的なビジネスの中の「ケア」に対して、大きな誤解をする人間も生まれてくるわけですよね。
わかりやすい例は、キャバ嬢やホスト、アイドルに対して「ガチ恋」する人たちが現れてくるような状態です。
それというのは、勘違いするほうも悪いけれど、そのようになっている社会構造にもかなり問題があるよなと僕は思います。
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社会に多様性が広がった結果、逆にお互いの大事にしているものが全くわからなくなり、私の物語を無神経に踏み躙ってくる人たちが世の大半にもかかわらず、目の前のこの人だけは私の物語をちゃんと理解をし、そちらを優先してくれる。
そんな人が目の前に現れたら、勘違いをしてしまって、恋をしたくなる人が出てくるのも当然です。
これは、心理学者・河合隼雄さんの本の中に、カウンセラーに対してクライアントが恋をしてしまうという話にもとてもよく似ている。
でも、その時はカウンセラーは、明確に拒む必要があると書かれてあります。
それは決して「排除」しているわけではなく「否定はしているけれど、包摂をし続けている」という状態を、いかに作り出すかが重要であるということですよね。
さもないと、利他やケアを発動すればするほど、世の中には逆説的にそんな勘違いをしたメンヘラが大量発生する原因を生み出してしまうわけだから。
「推し活」や「ホス狂い」というのはまさにそのような状況であって、これらが現代と非常に相性が良いのも当然のことだと思います。
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河合隼雄さんはよくご自身の著書の中で、カウンセラーは相手の物語を理解した上で、その物語にあえて乗っからずに、ピシャッと叱ることの重要性を何度も何度も繰り返し書かれています。
なんでこんなに叱ることを強調するのかなと、僕はずっと不思議に思っていました。
90年代っぽい時代の話だと思っていたし、現代においては役に立たない話なのだと思っていたけれど、それはとんでもない誤解だったのです。
このような構造やジレンマをちゃんと理解していたからこそ、河合隼雄さんは「包摂かつ否定」の重要性を繰り返し説いていたんだと理解しました。
いまなら、ものすごく腑に落ちる話です。
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最後に、また繰り返すけれど、1番優しいケアは「包摂」かつ「肯定」することです。
現代の世の中は多様性という旗印のもと個々人の物語がバラバラになってしまった結果、包摂かつ肯定が足りていないことは間違いない。
そして、そのためには相手の傷にいち早く察知し、ケアをすることが重要であることも間違いない。
でも、それゆえに世の中に大量に生み出されている、亡霊のようなメンヘラたちの存在。
良かれと思って行なっているケアが、より僕らを「分断」してしまっているのかもしれない。
もちろん、水商売を筆頭にこの構造をうまくハックした「ケアビジネス」も年々拡大していく一方です。端的に言えば、これが夜の街だけでなく、昼の街でも金になることが見事にバレ始めた。
この健全さを理解しておかないと、より一層、悪循環に陥ってしまうのかもしれません。
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つまり、相手の物語を明確に把握し、共に共有した上で、その物語が間違っていることをちゃんと指摘する勇気を持つこと。
これもまた、「勇気」の問題だと僕は思います。
以前もご紹介した河合隼雄さんの「クライアントがカルト宗教にハマってしまった時にどうすればいいのか」という話にも、見事に通じる話だと思います。
「ついていけません」とはっきりと伝えた上で、好きなときに帰ってこられるように「いつでも待っています」と伝えること。これもまさに、包摂かつ否定の状態です。
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Wasei Salonも、包摂かつ肯定だけでなく、否定されたとしても対話をし続ける、お互いに問い続ける、という関係性を大事にしていきたい。
そうじゃないと、ただただお互いの傷を舐め合うことになってしまうから。そんなコミュニティは、世の中にはゴマンとある。そしてそれらは幻想に過ぎない。
相手の物語を精一杯に理解しようと努めたうえで、時には相手の物語に安易には乗っからない勇気をお互いに持ち合うこと。
そして、相手からそのような態度を取られても、対話が続けられているうちは「排除」だと勝手に誤解しないこと。つまり、メンヘラを発動させないこと。
現代において、とても大事なことだと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。