ソフトバンクの孫正義さんが、AIが出てきてから、株主総会など、様々な場面でたびたび語っていることがあります。

それは「これからのAI時代には、『のび太』が大事だよ」と。

先日読んだLINEヤフー前会長・川邊健太郎さんの『7つの激変』の中にも、この話が登場していました。

「何をしたいか」といくらAIに問いかけても、答えは出ない。「What」と「Why」だけは人間が起点となる。つまり「欲をかく」ということが、人間にしかできない役割として、これまで以上に求められるようになるのだ、と。

この話、言いたいことは、よくわかるんです。

AIがどれだけ賢くなっても、「そもそも何がしたいのか」を立ち上げることだけは、人間の側に残されている。だからこそ、道具を前にして素直に「あんなこといいな、できたらいいな」と願える人間が強いのだ、という話はものすごく納得感もある。

ただ、この話を聞くたびに、僕はいつも強い違和感を覚えてしまうんですよね。

なぜ、わざわざ怠惰で、「欲をかく」人間に自らなりにいこうとするのか、と。

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くれぐれも誤解のないように書いておくと、僕はのび太というキャラクターを貶したいわけではありません。

『ドラえもん』という物語の中の「のび太」は、本来もっと多面的な存在のはずなんです。

たしかに欲をかくし、怠けるし、すぐに道具に頼る体たらくな人間です。

でも、そのたびに毎回失敗して、痛い目を見て、恥をかいて、泣きわめき、結果として素直に反省もする。そして最後のところでは、絶対に友だちや家族を裏切りきれない。

そんな風に、弱いけれど、完全には腐りきらない、それがみんながよく知る「のび太」という存在だと思うんですよね。

だから「のび太が大事」という話を本当の意味で理解しようとするならば、「欲をかく」力だけではなく、失敗して恥じる力や、いざとなったら友だちのために全力で動いてしまう力までを含めて語らないといけないはずなのです。

そこをすべて抜き取って、「これからは欲をかける人間が勝つ」という話にしてしまった瞬間に、何かが決定的におかしくなるし、きっと藤子・F・不二雄先生も、それは一切望んでいなかったことだと思います。

僕が感じている違和感の正体は、たぶんここにあるはず。

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そして、この構造は、親鸞の「悪人正機」に対してもありがちな誤解と、とてもよく似ている気がしています。

悪人正機は、乱暴に言えば「善人よりも、悪人こそが救われる」という思想として語られることがあります。

でもそれは、「では、救われるために悪人になりましょう」という話ではないはずです。

自分の中にあるどうしようもなさや弱さ、愚かさに直視したときに、はじめて開かれる「逆転の救い」の話であって、悪を積極的に演じるための思想ではない。

親鸞自身も「わざわざ悪人になろうとするな」と戒めたとも言います。

つまり、弱さを自覚することと、弱さを戦略化することは、まったく違う話だということです。

できない自分と向き合い、それを最終的に認めることと、怠惰こそが人間の本質だと開き直ることはまったく違うわけですよね。

「AI時代にはのび太が大事」という言葉が、時代の空気の中で、後者の開き直りのほうへ流れていってしまうときに、僕はどうしても気持ち悪さを感じてしまうのだと思います。

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実際、AIはドラえもんの道具のように、僕らの「あんなこといいな、できたらいいな」をどんどん叶えてくれるようになりました。

ありとあらゆるデジタル上で完結するすべての欲望に対して、AIはかなり高い精度で応えてくれる。

だからこそ「何をしたいか」を問うことが大事になる。

でも、本当にそうなのだとしたら、それ以上に大事になるのは、「その欲望に従っていいのか」を問うことのほうなのではないか。

つまり、AI時代に人間へ残されるのは、欲望を出す力ではなく、欲望を吟味する力なのではないか。

僕には、そっちのほうが圧倒的に大事な要素だと感じてしまいます。

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もっと素朴に直感的に言ってしまえば、「いや、普通に生きればよくない…?」と思うのです。

資本主義とAIに、そこまで過度に振り回されずにさ、と。

もちろん、ここで言う「普通に生きる」とは、何も考えずに世間の価値観に従うという意味ではないです。

むしろその真逆であって、どれだけ便利な道具が現れてきたとしても、どれだけ時代が欲望を加速させてこようとしても、自分の中のある一線だけは簡単に手放さない、ということが大事であるということを強く言いたい。

たとえば、もし仮にこの先、戦争が肯定される時代がまたやってきたとして、「これからは織田信長のように振る舞える人間が大事だよ」と言われたら、僕らは今の倫理観をすべて捨てて、信長を目指すのでしょうか。

きっと、目指さないはずです。

同様に、時代の要請が変わったからといって、自分の倫理観をまるごと入れ替える必要はまったくない。

AIと資本主義が欲望を加速させる時代だからといって、わざわざ欲深く、怠惰な人間になりにいく必要もないはずなのです。

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じゃあ、その「手放さない一線」とは何なのか。

以前読んでいた、批評家・加藤典洋さんの『村上春樹の短編を英語で読む』という本の中に、まさにこの話が出てきました。

加藤さんは村上作品を読み解きながら、誰にでも適用される普遍的なモラルとは別に、その人だけが持っている「自分のルール」というものがある、という話をしています。

例に挙げられているのは、小説家・吉行淳之介の「自分が愛人と喧嘩する、その場合、うやむやのうちにセックスでそれを解消しない、自分はそういうことはすまいと心がけている」という個人的な決めごとや、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公がワイシャツにアイロンをかけるときの、あの独特な順序へのこだわりなどを紹介していました。

それらは、誰にでも勧められる「正しさ」ではありません。「いや、僕はうやむやのうちに、つい、セックスしちゃうけど、いいんじゃないかなあ、そんなに潔癖にならなくとも」という人がいても不思議ではないし、そのことでその人は責められるべきでもありません、とも書かれていました。

つまり「君もこうしなさい」と働きかけるようなものでもない。なぜかと聞かれても、うまく説明できないかもしれない。でも、自分は、こうする。こうすることにしている、というようなもの。

加藤さんはソレを、その人の審美観、あるいは信憑と呼び、村上作品の登場人物たちの生き方の芯に、この種の個人的なルールを見出していました。

普遍的な正義とは別のところにある、きわめて個人的なルールや美意識、誰に褒められるわけでもないのに、なぜか手放せない、自分だけの決めごと。

AI時代に問われるのは、実はこっちのほうなのではないかと、僕はかなり真剣に思うのです。

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そして唐突なようですが、僕はこの感覚は「ハードボイルド」に、とても近いと思っています。

たとえば、フィリップ・マーロウなんかは、非常にわかりやすい。

マーロウは、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する私立探偵で、ハードボイルドといえば真っ先に名前が挙がる架空の人物です。

本人を知らなくても、彼の有名なセリフ「男は強くなければ生きていけない。しかし、優しくなければ生きていく資格がない」なら、何度もこのブログで紹介してきたので、知っている人も多いはず。

ハードボイルドというと、一般的にはタフでクールな男が、感情を表に出さず、暴力と孤独の世界を生き抜いていく物語、というイメージで語られることが多いと思います。

強さの美学、痩せ我慢の美学、と言ってもいい。

そして、マーロウは、別に聖人ではないです。世界を救おうとしているわけでもないし、普遍的な正義を説く人でもないことは、小説を読むとすぐに理解できます。

むしろ、彼のまわりの世界は徹底的に腐敗している。

それでも彼は、最後のところで「自分はそうしない」と踏みとどまる。損をしても、バカにされても、誰にも褒められなくても、ある一線だけは、絶対に越えない。

それが、ありとあらゆる角度から描かれているのが、フィリップ・マーロウのシリーズだと僕は思います。だからこそ村上春樹もこの小説をすべてシリーズで自ら翻訳をしたのだろうなあと。

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つまりハードボイルドの核心は、暴力でも、孤独でも、男らしさでもなく、世界がどれだけ腐っていても「自分のルール」だけは手放さないことなのだと思います。

もちろん、僕が大好きな寅さんシリーズも、このハードボイルドを地で行くような物語です。

誰がなんと言おうと、寅さんは寅さんの信じる、義理と人情、他者への敬意と親切心をどこまでも貫く、そこに世間の目などは関係がない。

そして、マーロウと寅さん、両者ともにその軸がハッキリとしているから、どんな場面でも舞台となり、長編シリーズになる物語になる力を持っている。

これからの時代は、できることがどんどん増えて、欲望がどんどん実現しやすくなる時代です。

でも、そんなときに最後に問われるのは「それでも自分は何をしないのか」「どの欲望には乗らないのか」「どんな便利さには魂を売らないのか」だと思います。

だとすれば、これからのAI時代に本当に必要なのは、のび太性というより、むしろマーロウや寅さん性のほうなのではないでしょうか。

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もちろん、人間の中には誰しも「のび太」がいるとは思います。僕の中にものび太は間違いなく存在している。

それぞれのそんな弱さを否定する必要は、まったくないとは思います。

とはいえ、自分の中にのび太がいることを認めることと、のび太に積極的になりにいくことはまったく違う。

AI時代に本当に必要なのは、欲望を出す力だけではなく、その欲望に対して「いや、それでも自分はそれはしない」と言える力のほうなのだと思います。

それは道徳の教科書に書かれたような正義感でもなく、世間で語られるような一般的な倫理でもなく、もっと個人的な信憑であり、審美観であり、自分だけのルールをもつことなんだろうなあと。

そんなことが、これからのAI時代には、ますます大事になってくるような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。