今朝配信したVoicyのプレミアム配信は、最所あさみさんをゲストにお迎えして、ふたりで「アイドル論」について80分近く深く対話をしました。


ジャニーズを起点にしながら、日本人にとっての「アイドル」とはどんな存在か。

そのうえで、健やかな推し方とは?という話で盛り上がりました。

特に、話の流れの中で強く印象に残っているのは、ジャニーズJr.の話題から、映画『国宝』がわざわざ青春編を描いた理由、そして甲子園からのプロ野球の流れについて。

そこから日本人にとっての「血」とは何か、についてというお話。

これは表では決して語ることができない内容でもあるけれど、それゆえに本当に学びと発見の多いお話だったなと思います。

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さて今日、このブログの中で語ってみたいのは、対談のなかで少し話題に挙がっていた「尊敬するひとに、あまり積極的に会いに行こうと思わないのはなぜか?」というくだりについてのお話です。

僕は、自分が憧れる相手、推したい相手であっても、なるべく直接自分から会いに行くことはしないようにしています。

その理由は、結論から言えば「相手との適切な距離感を守りたいから」です。

配信内でお話した、大学生の頃のとある体験が大きいのですが、いったん距離が崩れてしまうと、こちらの「要求」が勝手に増大してしまうなと気付いたんですよね。

具体的には、相手が「あちら側」にいるうちは保たれていた畏敬の念が、近づいた瞬間に“欲望”へと転じてしまう怖さを知りました。

いわゆるな「蛙化現象」も構造としてはそれに近い。

で、だからこそ、一方通行を巧みに双方向化してしまい、手玉に取るように応答してくれる存在が、逆説的に現代では強くなってしまうジレンマがある。

アイドルの握手会や、夜の世界や水商売の人々がアイドル化していくのは、その分かりやすい成功例だと思います。

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本来アイドルの語源は「イドラ」であり、偶像や幻影、その崇拝の対象という意味合いです。

虚構としての対象であり、こちら側に“反応してこない”からこそ、そこに働く力があるし、価値があったはずです。

最所さんが配信内でも語っていたとおり、アイドルという「虚構」は、社会の悪事や雑音からいったん切り離された「繭(まゆ)」のようなニュートラルポジションを築いてくれて、僕ら人間に、休息と再起動の時間や猶予を与えてくれる。

そして、それが「物語」の本来の役割でもあるわけですよね。

あちら側にいって、こちら側に帰ってくる。まさに小説の役割でもあります。

その意味で「物語=虚構」は、人間がこの世知辛い世の中を生きるために必要不可欠。

でも今、「会いに行けるアイドル」が当たり前になって、その前提が壊れ始めてしまっているわけです。

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この点、僕がすぐに思い出すのは、養老孟司さんがよく語る「劇場と教会のふたつが、真っ赤な嘘だった」というお話です。

今日、オーディオブック化されたばかりの書籍『脳は耳で感動する』という養老さんと久石譲さんの本の中で、この話がわかりやすく語られていました。

本書の中で養老さんは、西洋の街の中には、2つの真っ赤なウソが存在すると言います。

それが「教会」と「劇場」。

このふたつは街の中でも“真っ赤な嘘が許されている装置”だと言います。中で起きることは、最初から虚構だと宣言されているから、人は安心して没入することができるのだ、と。

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「日本で言えば、漫画や映画も同じです」とも語られていました。つまり「物語」の世界ですよね。

本当に大切なのは、そこでエネルギーを得て、“行って返ってくる”こと。

久石さんも、この話の行の中で「だから、どうやってウソをつくかの大前提がきちんとしているかどうかが、フィクションの基本だ」と語られていました。

ゼロ年代までのアイドルもまさに「あちら側=虚構の舞台装置の上の存在」だったと思います。

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でも今は、その「あちら側」と「こちら側」の隔たりが一切なくなってしまい、あちら側がこちら側に、ドンドンと降りてきてしまった。

主にスマホという直接ファンと繋がれる「窓」を通じて、劇場と教会以外の場所でも、24時間365日つながれるようになってしまった。

そのなかで、ステージの舞台裏を見せることなんかも、当たり前になったわけです。

そうやって、舞台裏を見せたほうがファンからは喜ばれるし、余計にアディクトしてくれるようにもなる。結果として、余計に金を積んでくれる。そこにネガティブな要素はひとつもない。三方よしにも思えてしまう。

そして、グッズ販売にも拍車がかかり、推し活はひたすらファンから搾取し続ける構造となる。

そうやって、資本主義のルールのもとに、ファンの可処分資産とか処分時間を搾り取れるだけ絞りとることが正義となっていくわけです。

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で、こういうことを書くと、「私の推しは、ちゃんと消費者のお財布事情も考えてくれている!」と語る人たちもいるはずです。

でもそれは、ファンのライフタイムバリューが計算されているに過ぎない。

逆に言えば、目先の取る金額に対してファンに痛税感がなければ、いくらでも居心地良く長く推し続けてくれることがわかっているからこそ、そこが狙われている。

そっちのほうが生涯通したら、圧倒的に巻き上げられるわけですから。痛みを与えて、夢から覚めないでいてくれたほうが、都合が良いわけです。

これは昔の荘園領主の発想と一緒です。キツすぎる年貢は、農民を殺してしまいかねない。だから、生かさず殺さず、のギリギリのラインを狙ってくるのも当然のこと。

そう考えると、お財布事情を勘案してくるのは、余計に姑息な手段とも言えそうです。

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むしろ、消費者としては、最終的に巻き上げられる金額を考えたときに、あまりに痛税感が強すぎて、1年でやめてしまった推し活のほうが、、実は圧倒的にお得だったということにもなる。

最近話題の、推し活クレカとなどは、本当にその搾取が度を超えているなと僕は思います。

あの仕組みを「三方よし」と語るひともいるけれど、そんなワケがないじゃないですか。

推し活クレカの時点でカモなのに、初期設定がリボ払いになっていたりしたら、それはもうカモ中のカモ。これは単純な算数の問題です。複利の計算なんかしなくてもわかること。

逆に言えば、そのカードを率先して選んでいる時点で「私は算数ができない人間です」と宣言したようなもの。

つまり、単純な算数の計算ができないひとに対して、算数の計算が大好きなひとに、痛税感なく、つまり支払っている痛みががないままずっと、ストローのようにチューチューされて、搾取される構造が、まさに推し活クレカの実態だと僕は思います。

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でもこれは、やっている側も騙したくてやっているわけではなく、自分たちが生き残るために、ハックしていくと必ずそうなる、まさに構造的な問題なのだと思います。

ここで思い出すのが、福田恆存の「神は沈黙しているのが商売だ」という考え方。

「問いかけても答えないからこそ、神たりえる。もしその都度答えてくれるなら、それは銀行や金貸しの機能に近い」というお話です。

福田は、友人の遠藤周作が『沈黙』を書いたことを前提に、「神が沈黙したというけど、沈黙しているのが神様の本来の商売じゃないか」と言い切ります。

以前もご紹介したことのある『福田恆存の言葉』という本から少し引用してみたいと思います。

問いかけても答えない、救いを求めても一つも手を伸ばしてくれない、これが神様というもの。それでこそ信じられるのでね。救いを求めたら助けてくれる、これだったら金貸しと同じだなと、銀行だってそう、やはり質問して答えてくれるという、これは大したものじゃないんです。

そういうものを前提としなきゃ神というものは出てこない。その神様というものを、あるいは神というものを、その手先(手先と言っちゃいけないけど)神父とか牧師とかという人たちですね。代理人たちは、神意を知っているかのごとく振る舞う。これがどうも私には気に食わなくてしょうがないんです。


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このお話は、とても共感します。そして、福田は「だから、私は神の存在は信じているけれども、(宗教には)付き合わないことにしている」と結論付けていました。

この構造を、今のアイドルや推し活にあてはめると、プロデューサーたちも当時の「牧師」たちみたいなもの。

ちゃんと区切られて、仕切られて「真っ赤な嘘ですよ」だったから機能していたはずのものを、そこから引きずり出してきてしまった。

真っ赤な嘘が日常にまで侵食させてしまった。そうなるともう、形式は一緒でも完全に似て非なるもの。まったく別物になってしまうわけですよね。

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だから僕らは今一度「アイドルや舞台上の人間を推す」とはどういうことなのか、を考えなければいけないと思います。

そして、その「推す行為」を自らの生きるうえでの活力、そして健やかさに変換するとはどういうことなのかを考えないといけない。

「真っ赤な嘘」にも価値はあるんです。「嘘も方便」とまったく同じ論理。

でもそれを「免罪符」のようにお金に変えすぎてはいけない。

逆に言えば、教会という「真っ赤なウソ」が人間が生きるうえでなくてはならないものだったからこそ、そこで販売される免罪符が見事に金にしてしまったということでもある。

それとまったく同じ構図が、いまアイドルという劇場、その構造の中で起きている。

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誤解してほしくないのは、誰か個人の悪意を告発したいわけではない、という点です。

会社などの組織を維持し、生き残りをかけて、なおかつファンの満足度を担保しようとすれば、双方向化・常時接続・マネタイズの最適化へ向かうの当然で、構造的な帰結です。

そこに適切な「歯止め」や「倫理」が存在しないと、必ずそうなっていく。

だから、武道や宗教の歯止め、なおかつ日本文化の真髄としての「触れるなかれ、なお近寄れ」が大切だったわけですよね。

この構造を自覚したうえで、健やかな推し活の形を今一度考えるタイミングに来ていると思います。

ぜひみなさんにも実際に、最所さんと配信したプレミアム配信を合わせて聴いてみてもらえると嬉しいです。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。