ときどき、よそのコミュニティを覗かせてもらうと、なんだかやたらダラダラしているなあと思うことがあります。

きっと彼らのコミュニティというのは、会社やチームのような生産性やタイパ・コスパが求められる空間のアンチテーゼとして、あえてそうしている部分もあるのだとは思います。

しかし、目的もなくダラダラしながらダベっていることが、コミュニティの本来の目的では決してないはず。

個人的には「いまこれ、何の時間…?」って思わされるあの曖昧な時間が一番苦手。

どうしても「そういうのは、友だちや彼氏彼女、家族とやれよ…」と思ってしまいます。

コミュニティは、またそれとはまったく別物。完全に似て非なるものだと感じています。

会社でもないし、家族とも違う。僕が理想とするのは、パッと集まってパッと解散する、現地集合・現地解散的なあり方です。

コミュニティだからこそ、相手の時間に対して最大限の敬意を払うことは、めちゃくちゃ大切なはず。

では、それが一体なぜなのか。今日はこの問いについて、真剣に考えてみたいなと思います。

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この点、コミュニティは、生産性を追い求めない関係性なんだから、ダラダラした時間も許されるどころか、ともすれば、そのダラダラこそが目的だと誤解されがちです。

けれども、目的性やゴールが曖昧だからこそ、お互いの時間へのリスペクト、そんな「礼儀」が大事になるという逆説もあるはずです。

僕が常々、コミュニティ運営をするうえで「敬意と配慮と親切心」にこだわる理由も、まさにここにある。

ただ、ここで言う「相手の時間」というのは、決して等間隔で刻まれる「タイム」という感覚での時間ではありません。そこはくれぐれも誤解しないでいただきたいポイントです。

一般的に語られるような「相手から奪う時間は少なければ少ないほどいい、だから座らずに立ってミーティングしましょう」みたいな文脈で語られるような「時間」ではないということです。

あの話は、共通のものさしとして測れるものが、単純にグローバル企業ではソレしかないから、ソレが求められる。「より短い時間で、より高額なお金が提供されること」が正義であり、最善であり、それが万国共通の尺度であるだけ。

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もちろん、万国共通だからこそ、それで相手への「敬意」を示しましょう!という文脈も、そのとおりなんだろうけれども、決してそれだけではないはずなんですよね。

むしろ、そうやって価値基準や「ものさし」が一つに収斂していくから、ギスギスしてしまったり、そもそもそれが不可能な周辺領域の事柄においては、継続困難にも陥ってしまったりもしてしまう。

そうじゃなくて、僕がここで言いたいのは「相手の人生」その一回性に対する「敬意」なんですよね。

このふたつは、向かっている方向が同じベクトルのようにも思えるけれど、全くの別物だと思っています。

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で、ここで少し話は逸れるのですが、この話とまったく別軸で考えていた「挨拶」の話があります。

最近、あらためて挨拶ってすごいなあと思わされる機会が増えてきました。

社会人が使いがちな「お世話になっております」「引き続きどうぞよろしくお願いいたします」は形式的な挨拶だと、揶揄されることも多い。

でもこれは、それぞれの業界ごとに「われわれは同じ世間を共有している、つきましては〜」という暗黙の了解、その空気の共有でもあるし、言葉を選ばずに言えば「ゆえに、わかっているだろうな」という明らかな脅しでもあるわけですよね。

「そこからはみ出したときには容赦しないぞ」と。

だからこそ、お互いにそのラインからはみ出さないように「(空気を読み合って)よろしくお願いいたします」ということでもあるし、日々そのはみ出していないことに対して「いつもお世話になっております」ということ。

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で、このさらに上をいくのが芸能、ヤクザ、水商売のような周縁の世界だと思います。

あちらの世界では、いつなんどきであっても挨拶は「おはようございます」がデフォルト。

それは「ここでは、表の世界の時間感覚が一切通用しない、まったく別の時間が流れている。それぐらい我々は、強烈な”世間”を共有している」という暗黙の了解であり、こちらも業界の空気の共有そのものです。

こんなふうに挨拶ひとつとっても、世間との価値観のズレを見事に表現できる。

それを全員で発声し繰り返すことで暗示効果もあり、そもそもそれが慣習となって続いている事自体のすごさです。

特に、江戸の吉原特有の言葉遣いや、今も京都の祇園に残る祇園言葉とかはその最たるものだと思います。

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で、今日語ってきた時間と挨拶の話は、まったく別々の話のようでいて深いところでつながっているなと思っています。

そして、今コミュニティに求められていることは、新しい時間や新しい挨拶、その敬意の示し方の尺度をつくり出し、それをコミュニティごとに整えていくことだと思います。

我々は何の価値観を大切にしていて、何を誇りに生きていこうとしているのか、という価値基準の再提示。

これは、しばらく生ぬるい時代が続いた、ホワイトな流れの揺り戻しでもあると思います。

最近海外では、AIスタートアップが長時間労働は当たり前らしく、週7で働いていることが常態化しているようです。ブラック企業甚だしい。

でもそこにはスタートアップ、なおかつ従来とは全く異なる新しいAIというテクノロジーだからこそ、許されている”危険”がある。

まさにガレージの中だからこそ許される危険。

そしてそこに集まる人達も、このチャンス、このゴールドラッシュに乗らないで、いつ乗るんだ、それぐらい「俺の断固たる決意は、今なんだよ!」ってことだと思います。

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自分がやるやらないは別にして、その気持ちはなんだかよく分かる。

そして、僕がよそのコミュニティに行って「なんだか、ダラダラしてんな」と思うこと、その違和感の先に、つくりたいものとなんだか似ている。

社会の生産性のものさし、リベラル的な価値観も大事だけれども、それぞれが大事にしたい「誇り」も改めてそれと同じぐらい大事だよね、ということだと思います。

そして、お互いの大切にしたい「敬意」が揃っているから、悪意なく過失で足を踏まれたとしても「大丈夫、お互いさまだよ」と声も掛け合えるわけですから。

つまり、失敗しても許し合えるという逆説なんかも、そこに生まれてくる。

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これは、「約束した時間を淡々と守る」という話にしたってそうです。

コミュニティは、コスパタイパを重視しない関係性だからと言って、約束の時間に遅れて良いわけでは決してないはずです。

ときどき「仕事ではない関係性においては、時間がルーズでも許し合えるし、それこそが友人の価値だ」みたいな議論をするひとたちがいる。

それもひとつの価値観だし、決して否定はしない。

それが、そのコミュニティのひとたちの「ものさし」であり「誇り」でもあるわけですから。

そうやってルーズであればあるほど、お互いの敬意を感じられるということでもあるのだと思います。(まったく理解はできないけれど)

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ただ、僕は友達との関係性だからこそ、その関係性に甘えずに、仕事以上にある種の緊張感を持って、時間どおりビタッと来るひとを、本当に心から尊敬します。

なぜなら、僕はそこに相手からの深い敬意を感じるから。

それぐらい大事にしてくれているんだ、ということが伝わってくるから。

そもそも、ダラダラした関係性が許される友達との待ち合わせに、時間通りにやってくるというのは圧倒的に「無駄」なんですよね。

でも、無駄にも関わらず、全力を出してくれていると感じるから、僕らはその時に相手の敬意を深く感じ取る機会を得ることもできる。

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これは「脱帽」の話とも全く一緒です。


帽子を脱ぐという行為に、何の合理性も意味もそこにないからこそ、それが相手への敬意の表明になるという、あの話とまったく同じ。

つまり、そこに合理的な意味や生産的な価値、利害関係があっちゃいけないんです。

何か本人にメリットがあった瞬間に、たとえ本人にその気がなくてもそれはパフォーマンスを得るため、具体的にはお金や影響力や権力など、何かしらの形で我田引水したくて、やったんでしょう?と見て取れなくもないから。

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これは、自分がお客様(ゲスト)のときほど、自分がホストのように振る舞えること、お客様という立場に甘えない人が、僕らが「いい人」だとみなす理由なんかとも通じています。

そもそもそれは、圧倒的に「無駄」だからなんです。不要なこと。無駄な労力極まりない。

逆に言えば、「自分はお金を払ったんだから、店員に対して『ありがとう』なんて言う必要がない」と信じて疑わないひとは、完全にこのタイパコスパ主義、等価交換の論理において毒されているひと。

いや「毒されている」というと語弊があるかもしれない。「最適化しすぎた結果としての末路」なのだと思います。

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ここまで読んでみて、それぞれのコミュニティごとの「ものさし」や「誇り」を大切にしてしまったら、世の中はますます分断するじゃないかと疑問に思う人もいるかもしれない。

でも、逆だと思います。

そうやって、同じ「誇り」を大切にする中間共同体があるからコミュニティの外に行っても安心立命の境地でいられる状態ってあると思う。

各国のバラバラの民族衣装、その国ごとの正装で集まる国際会議みたいなイメージにも近い。

もちろん、究極の理想としては、ひとりひとりの敬天愛人の姿勢です。

具体的には、常に天を敬い、その天との「縦の関係性」の中で自らの立ち位置を明確に定めて、「横の関係」である周囲の人を、心から愛すること。

一神教の国であれば、この天が「神」概念に変わる。

当然、究極目指すべきひとりひとりの態度はソレだとは思う。とはいえ、それは非常にハードルが高く、ブレやすくもある。

だからこそ人間は、それでもブレないために、ある種の手本を示すために、宗教や武道をつくり出し、そこにコミュニティごとの「型(ルールや挨拶)」をつくったということだと思います。

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で、最初の若い頃は、その型を忠実に守るから、立場が異なる相手のことも、素直に尊重できる。

お互いに一礼してから、試合に入り、再び礼をして試合の舞台から降りられる。

「挨拶」だって型なんかなくたって良いんです。「こんにちは」でも「ハロー」でも「ニーハオ」でもなんでもいい。

でもそこに型があってくれるから、僕らは「挨拶」の本来的な意味を、その型を通して実感することができる。

「なるほど、こうすればお互いに無理がないのか!」と身体性を通して実感する。

それぞれの山の登り方において、型を極める態度から「天下無敵」の道を歩めるということでもあると思います。

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繰り返しにはなってしまうけれど、そのうえでWasei Salonは、ただ緩い関係性だから何でも許される場所にはしたくない。

むしろ、明確な利害関係や義務が、お互いに存在しないからこそ、お互いへの純粋な「敬意」が試される場であって欲しいなと強く思います。

そして、その敬意を共有できる人たちと過ごす時間こそが、本当に価値のある時間なのだと深く身体知を通して実感してみて欲しい。

「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」という先人たちが整えてくれた「型」を通して、次の時代にも、その型を受け継いでいける空間を構築していきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。