先日、Wasei Salonで『古本食堂』に続いて、原田ひ香さんの小説『喫茶おじさん』の読書会が開催されました。
https://wasei.salon/events/3744e1b37b40
この小説の主人公は、松尾という57歳の男性です。
大手ゼネコンを早期退職して、いまは無職。妻とは別居中で、娘はもう大学生。再就職のあてもなければ、これといった趣味もない。そんな彼が、東京のあちこちの純喫茶を巡りながら、自分の人生を少しずつ見つめ直していくような物語です。
読み終えた直後の僕は、この本を、どこか「哀愁のあるおじさんの再出発の物語」として受け取っていました。
描かれているのは、かなり重たい現代社会のリアルのはずなのに、そこにふっと喫茶店の脱力感、その甘味の「甘さ」が差し込んでくる。
だからこそ、読者も最後まで読めてしまうような不思議な小説でもあります。
ただ、読書会でみなさんのお話を聞いているうちに、僕の中に最後に残ったのは、思っていた以上に重たい問いでした。
自分のためだけに生きることは、本当に世間で思われているほど「自由」なのだろうか。
今日はそんなお話を少しだけ。
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この小説の最後のほうに、「これでいいのだ」という言葉が出てきます。
読書会の中でも、この言葉の意味が少し話題になりました。
「これがいいのだ」ではなく、「これでいいのだ」。
たった一文字の違いなのですが、ここには思っている以上に大きな差があるような気がしています。
「これがいい」は、自分で選び取った言葉であり、いろんな選択肢がある中で、自分はこれを選んだのだと、胸を張って言える響きのようなものが感じられる。
一方で「これでいい」には、どこか自分に言い聞かせているような響きが混じります。
本当は、もっと違う人生があったのかもしれない、家族と別の関係を築けたのかもしれないし、会社でも、もう少し違う終わり方ができたのかもしれない。
それでも、いま目の前にあるのは、この生活であり、この自分が開店すると決意したお店であり、この一日である、と。
だから「これでいいのだ」と自分に言い聞かせるように語るんですよね。
もちろんこれも、立派な肯定の言葉だと思います。実際、ある種の祝福の言葉としても描かれている。
ただ僕は、その肯定の中に、静かな断念のようなものが確かに含まれているなとも同時に思ってしまいました。
だからこそ、読書会を終えてからも、この言葉の微妙なニュアンスが、僕の中にずっと残り続けています。
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この点、いま世の中では、「人生100年時代」という言葉が当たり前のように使われていると思います。
そして、定年後もまだまだ人生は長いのだから、第二の人生を楽しもう、と。
「趣味を持って、学び直して、新しいことに挑戦しよう!これからは会社や家族のためだけではなく、自分のために時間を使おう」こういう言葉は、いまの社会の中ではほとんど疑いようのない「善」として語られていると思います。
もちろん、それ自体は決して間違っていないと僕も思います。
会社にすべてを捧げるような人生から解放されることは、間違いなく大切なことですし、家族や世間の期待だけに縛られず、自分の時間を取り戻すことも必要なことです。
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たとえば、読書会の中でも少し話題にあがったエッセイスト・松浦弥太郎さんの新刊『あたらしい旅をはじめよう』。
僕はまだ本書は読めていないのですが、松浦さんはこの本の中で、「成功」よりも「成長」そのものを楽しむことや、何歳になっても変わることを恐れずに、新しい旅を始めていくことの大切さを語られているそうです。
僕は松浦弥太郎さんの言葉が本当に大好きで、これまで何度も救われてきた自覚があります。だからこそ、その言葉の「正しさ」みたいなものも、よくわかっているつもりです。
でも同時に、最近少しだけ思うのです。
そうやって自分の趣味を楽しみ、自分の成長だけを味わい、自分の暮らしを丁寧に整えていくことは、果たして本当に「自由」なのだろうかと。
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会社から自由になり、家族から自由になり、役割や世間体からも自由になる。
それはたしかに、外から見れば「自由」そのものです。大成功の人生。
でも、人間は本当に「自分のためだけ」に生きられるのでしょうか。ここが、僕にはどうしても引っかかってしまうのです。
一方で、何かを継いでいるとき、人は自分ひとりではなくなります。
店でも、家でも、共同体でもいい、誰かから受け取ったものを次の誰かに渡そうとするとき、人は自分の人生をほんの少しだけ超えることができる気がします。
言い換えると、自分の好き嫌いや快不快だけでは終わらない何かに、知らないうちに接続されていくところに、僕らがずっと見過ごしてきた豊かさがあるんじゃないか。
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でも、いま社会の中で語られる「正しい第二の人生論」は、そこをあまり語らないなあと思うのです。
あなたの好きなことをしましょう、あなたの人生を楽しみましょう、そればかり語られる。
そんなふうに「あなた」だけがどんどん肥大化していった先に待っているのは、他人から見れば幸福の姿そのものであっても、案外、孤独なのではないでしょうか。
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誰かに命令されることもなく、期待されることもなく、切実に必要とされることもない。
それでも、まだ死ぬには早い。
人生100年時代が厄介なのは、この「まだ死ぬには早い」時間が、とんでもなく長く残されていることだと思います。
身体もまだまだ動くし、お金もまったくないわけではない。何かを新たに始めることだってできる。だからこそ、あとは好きにしていいよと言われるわけですよね。とはいえ、20代〜30代ほどの野心や気力はもう残っていない。
そのときの、この「好きにしていい」は、本当に自由なのか。
むしろ、かなり厳しい「孤立」の言葉なのではないか。
『喫茶おじさん』を読みながら、僕はそんなことがずっと気になってしまいました。
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読書会の中では、主人公の松尾さんは「恵まれている」という話も何度も出てきました。
たしかにそのとおりで、彼には大企業で働いてきた経験があり、退職金もあり、家もあり、身体もまだまだ動きます。
世の中には、そんな余地すら持てない人がたくさんいるわけですから、間違いなく恵まれた側の人間なのでしょう。
でも、だからこそ怖いのだと思います。
苦悩は、恵まれていない人だけのものではありません。むしろ恵まれているからこそ苦しい、ということがあるなと感じます。
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何もできないわけではなく、何をしてもいいし、選択肢もまだ残されている。それなのに、何をしても「これでよかったのか」という疑問だけがずっと残ってしまう。
明確な不幸があれば、苦しみの理由もわかりやすいけれど、松尾さんにはそれがないわけです。
だからこそ周囲から「あなたは何もわかっていない」とも言われ続けてしまう。
この小説の中で、松尾さんは本当にいろんな人から「わかっていない」と突きつけられます。娘からも妻からも、かつての同僚からも同じ言葉を繰り返される。そしてこの言葉が、読んでいて本当に痛々しいのです。
主人公に向けられている言葉のはずなのに、読んでいるうちに、いつの間にか自分自身に返ってくる。
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ただ、ここまで自分で書いてきて、ふと頭をよぎったのは、これはもしかすると、以前このブログに書いた「引き受けることが大事だ」という話と、矛盾しているように読まれるかもしれないなあと。
僕は少し前に、「引き受けるひとは、なぜ美しく見えるのか。」という文章を書いたことがあります。
そこで書いたのは、どんな人生であっても、どんな境遇であっても、それを自分のものとして引き受けることができたとき、ひとは社会一般で語られる幸福や不幸とはまったく別の次元で救われるのではないか、という話です。
自分の人生に対して、「成るように成った」という納得感を持つこと。その境地にたどり着くことさえできれば、世間的な正解や成功や幸せに、必要以上に振り回されなくなる。
この感覚は、いまでも本当に大事にしています。
じゃあ、松尾さんの「これでいいのだ」も、それと同じように「美しい引き受け」なんじゃないか。
ここが、今回自分自身が考え込んでしまったところでした。
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というのも、「引き受ける」という言葉には、どうやら二つの方向があるような気がしてきたからです。
ひとつは、自分の人生を、自分で納得すること。
うまくいかなかったことも、取り返しのつかないことも含めて、これが自分の人生だったのだと受け入れること。それはたしかに、とても大切なことです。
でも、もうひとつ、もっと深い意味での「引き受ける」があるように思うのです。
それは、自分の人生を、自分ひとりのものとしてではなく、なにかしらの縦の系譜の中で受け取り直すこと。
誰かから受け取ってしまったものや気づけば背負わされていたもの、自分の前にいたひとたちが残していったものを、自分のあとから来るひとたちに対して、たとえわずかであってもそのバトンを丁寧に手渡していく。
そういう流れの中に、自分を置き直すことのほうが大事なんじゃないか。まさに「ヒンメルならそうした」の話です。
本当の意味での「引き受ける」は、たぶんこちらの感覚のほうに近いのだろうなと思います。
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だからこそ、自分の趣味を楽しむことや、暮らしを整えることなど、自分の人生に達観して納得することだけでは、まだほんの少しだけ足りないのだと思います。
それ自体は本当に大切なことです。
でも、それだけでは、どこまでも「自分」の中で閉じてしまう。
人生100年時代の第二の人生論が、どこか空虚に響いてしまう瞬間があるとすれば、きっとこの部分なのだと思います。
「あなたらしく生きましょう」と語られるとき、その「あなた」がどこから来て、誰から何を受け取って、その先に何を手渡していくのか。そこが完全に抜け落ちたまま語られる自由は、どこかで必ず「所在なさ」や「根無し草」感を生んでしまうからです。
個だけでは人は生きられない、人には自分を超えたものと自分をつなぐ物語が必要なのだと、河合隼雄さんが口を酸っぱくして語り続けてくれたことでもある。
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人生100年時代に必要なのは、「第二の人生をもっと楽しもう」という明るい励ましだけではないのだと思います。
誤解を恐れずに伝えたいので、何度でも繰り返したいのですが、山登りや海外旅行のような趣味を持つことも、学び直し新しい挑戦をすることも、自分のために料理をつくることも、そのすべては大切です。非常に尊い行為である。
でも、それだけでは、自由になったあとに人が抱える「所在のなさ」までは掬いきれないんじゃないか、それが今日の僕のいちばんの主張です。
客観的にはどれだけ幸せそうにみられても、自分だけは騙しきれない何かがそこには存在する。
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誰にも必要とされない時間の長さや、継ぐものを持たないことの寂しさ。
託されるものがない人生の、その軽さゆえの、重さを逆説的に深く実感してしまう。それが人間の孤独をより深めるものにしてしまう。
自分のためだけに生きること、その自由を謳歌することに内在する思っていた以上の苦しさは、きっとこのあたりにあるように感じています。
いま第二の人生の真っ只中にいる世代と、これからそれを迎える僕たちの世代とでは、考えるべき「第二の人生」の中身が少し違うはずです。
そのアップデートは、たぶん今日書いてきた観点あたりから始まるのではないかと今漠然と思っています。
松尾さんの「これでいいのだ」が、自分ひとりを納得させるための言葉だったのか、それとも、次の誰かに何かを開いていくための言葉だったのか。それは、読んだひとそれぞれの受け取り方に委ねられていると思うので、ぜひ本書も実際に読んでみて、もしくはオーディオブックで聴いてみてもらえると嬉しいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/07/02 14:01
「第二の人生」を謳歌することは、本当に自由なのか。
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