最近、この記事に言及してもらうことが多くなりました。

参照:‪物欲は好奇心で、所有欲は執着心。 | Wasei Salon

局所的ではありますが、同じようなモヤモヤを抱えていたひとが存在していたみたいで嬉しいです。

今日はこのお話の続きを少しだけ書いてみようかなと。

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僕らは小さなころから「我慢することが美徳である」と教わっています。

自分の中に物欲が生まれてくると「本当に必要なのか?」と自問自答するように教えられてきた。

そして、我慢できると「偉いね!」と褒められて生きてきました。

だから、真面目なひとほど、とにかく自己の欲求を消え去るのを待ってしまいがちです。

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でも、いま僕が改めて思うのは、欲求が無くなることは、善でも悪でもない。

長い時間その欲求を放置していれば、それが次第に薄れていくことは当然のことです。

おじいちゃんがいつまでも野心を持っていないのと同じように。

時が経つにつれて、過去の自分の選択を肯定するようになっていきます。

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そして、ここからが今日の本題なんですが、

自分の中の欲望を無視して、見て見ぬ振りし続けると、何かしらの弾みで臨界点に達したときに、変な形で発露してしまうんですよね。

大人になって、子供の頃に欲しがっていたおもちゃを極端に買い集めて、コレクターになるみたいに。

この場合は、個人の自由の範疇ですが、他人の妬み嫉みにつながると厄介です。

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他者に文句をつけているひとを見かけたとき、

「このひとは何を我慢してきたんだろう…?」と想像してみると、その行動の要因が見えてきます。

もちろん自分が他者に対して妬み嫉みに似た感情を抱いた時も、「これは自分の中のどんな欲求を無視し続けた結果の感情なんだろう…?」と考えると、大抵の場合はすぐに見つかります。

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何度もこのブログにも書いてきているけれど、自分の機嫌は、自分で取ること。

参照:‪形から入ることはダサいと批判するのは、もうやめた。 | Wasei Salon

そして、そのためには、失敗を恐れて、欲求が消失するのを待つな、と主張したいのです。

僕の提案は、自己の「好奇心」にいつだって自覚的になること。

「自覚的になる」と、「外側に発露して表現する」とは、また別の話ですからね。

拗ねそうになる自分に、ちゃんと寄り添ってあげること。

自分が自分に対して、共感してあげる。決して放置しない。

それが「今ここを生きる」の一つの手段だと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっている方々に何かしらの参考になったら幸いです。