昨日『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観てきました。
結果から言えば、前評判通り、めちゃくちゃおもしろかった。純粋にエンタメとして素晴らしかったですし、今これだけ大人気なのもよくわかる。
最近はSFエンタメも、このぐらい大胆にぶっ飛んでくれないと、もうSFを観た感じがしないのかもしれません。
現実のAI技術や世界の変化のスピードがあまりにも速いから、中途半端な未来像では、かえってこちらの想像力が働かない。そういう意味でも、とても新鮮な映画体験でした。
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ネタバレのない程度に、ざっくりと言えば、この映画は宇宙規模の危機に対して、一人の男がとんでもないミッションを背負ってしまうお話です。そして、宇宙で出会った異星人と共にそのミッションに立ち向かう。
舞台は壮大だし、科学的なアイデアも大胆で、ハードSFとしての魅力は十分にある。けれど、観終わったあとにいちばん強く残ったのは、設定の奇抜さそのものではなかったんですよね。
この映画は、たしかにSFの皮をかぶっているのですが、でも深く芯のところにあるのは、もっと古典的で、もっとまっとうなものだった気がします。
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僕は、これはすごく誠実に作られた「友愛」映画だなと思いました。
そこが、個人的にいちばんおもしろかった点です。
この手の世界を救う系の大作映画というのは、たいてい男女の恋愛や家族、裏切りや駆け引きのような「人間ドラマっぽさ」を強く入れてくる。
そうした要素があったほうが、観客にわかりやすく感情移入させやすいからです。
でも『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はそうじゃない。そのあたりの要素を、かなり大胆に削ぎ落としていました。
故郷(ホーム)を守る話ではあるのに、故郷での色恋や故郷の家族のドラマに回収されていかない。
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そして何より印象的だったのは、物語の中心にある関係が、疑いや裏切りではなく、終始の「信頼」のほうで動いていたことでした。
異星人同士、文化も身体も知覚もまったく違う相手と向き合う。本来なら、その違いはもっと強い不信や衝突を生みそうなものです。
たとえ、いったん通じ合ったように見えたとしても、どこかで利害の対立や決定的なすれ違い、そこからの裏切り行為が起きてもおかしくない。むしろそのほうが、今の僕らには「リアル」に見えるはずだし、そのほうがドラマや起承転結もつくりやすいはず。
でもこの映画では、そうした方向へ大きく舵を切らない。そこに僕はかなり驚きました。
そして、その驚きは途中で別のかたちに変わっていった。この映画が描いている信頼は、ただ「信じる」と言葉で確認し合うようなものではなく、もっと具体的で、もっと身体的なものだったのだと気づいたからです。
たとえば、相手が無防備になる時間を、ただただ互いに見守ること。相手のペースに合わせること。先に進まず、急がせず、ただ待つこと。この映画には、そういう場面が何度も出てきます。
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そこを観たとき、信頼というのは「心理の問題」である以上に、「時間の問題」なのかもしれないと思ったんです。
すぐ答えを求めない。すぐ成果を求めない。相手の準備が整うまで待つ。相手のペースが来るまで、こちらが淡々と待ち続ける、その節度。
そう考えると、この映画が描いていたのは「裏切りなき信頼」というだけではなく、信頼とは「待てること」なのだという感覚だったのかもしれないなあと。
しかも、その「待つ」は、ただ優しさだけではない。
待つ側は、自分の時間を差し出しているし、効率をいったん脇に置いている。自分のペースで進める権利を、少し手放している。だから待つというのは、単なる受け身ではなく、かなり深い献身でもあるわけですよね。
そして、ここからさらに感じたのは、この映画が描いていたのは、単に「待つこと」だけではなく、そのふたりが耕す時間そのものだったのではないか、ということです。
ただ計測される客観的な時間(クロノス)でもなければ、個人の内面の主観的な時間(カイロス)でもない。
そうではなくて、そのあいだにある、相手のテンポに合わせながら、少しずつ一緒に積み上げていく時間。無理に同期させず、でも完全に放置もせず、互いのリズムを覚えながら、少しずつ共通の時間を紡いでいく瞬間です。
あの映画の感動は、たぶんそこにあったんだろうなあと。そして今、きっとそこに多くの人が刺さっているはずなんです。
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しかもそれが、わざわざ「地球の外」のような場所で描かれていることが、また素晴らしい。
これは舞台が「地球の外」じゃなければいけないんです。なぜなら、地球の内側には、あまりにも多くの「社会的時間」がありすぎるから。
役割、制度、競争、成果、進捗、効率、責任、そういうものが、常にこちらを急かしてくるわけですよね。
そのなかでは、ただ相手のペースに合わせて待つこと、二人だけの時間を耕すこと、それ自体がとてもむずかしいのが現代の姿。
だからこそ、この映画の幸福感は徹頭徹尾、その外で行われている。
そして、そこにこそ本当の幸福感があると、たぶん多くのひとがもう気づいている。
気づいているのに、社会のなかで揉まれると、それがなかなか許されない。その身悶え感が、この映画をただの感動作以上のものにしている気がしています。
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そして、この「ふたりが耕す時間」という感覚について考えていたとき、その前日に観たもう一本の映画のことを思い出しました。
それがタイトルにもあるように『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』です。こちらは公開初日に観に行ってきました。
この映画でもまた、「待つこと」と「時計(時間)」がひとつのカギとなっていた。あまり詳しく書いてしまうとネタバレになるので、なるべくフワッと書くのですが、そこで描かれていたのも、ただ均質に流れていく時間ではなかった。
言い換えると、時間はいつも等間隔に進むわけではない。誰かを待つ時間は、長くも短くもなるし、そこには強烈な痛みなんかも伴う。
しかも、その時間を現実の社会的な時間のなかで守り続けるのは簡単ではない。
でもだからこそ、スクリーンのなかで描かれる「余人をもって代えがたい相手と一緒に、私とあなたのテンポで流れる時間」は、ものすごく感動的に見えるのだと思います。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』も『えんとつ町のプペル 約束の時計台』も、時計が刻む均質な時間ではなく、誰かを信じて待つことでしか立ち上がらない、そんな「関係の時間」を描いていました。
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で、僕は、この共通点に、ものすごく強い現代性を感じたんですよね。
いま世界全体の空気としては、どこもかしこも「加速主義」的な話が多いわけです。
もっと早く。もっと先へ。取り残されるな。最適化しろ。急げ。判断しろ。
そうやって、FOMOに背中を叩かれるようにして、現代人は、日々前へ前へと急かされている。それこそが未来の幸福につながる道だと信じて。
でも、本音のところでは、本当にそんなに先へ行きたいと思っているのだろうか。むしろ多くの人は、急ぎたいのではなく、急がされているだけなのではないか、と。
先に行きたいのではなく、置いていかれたくないだけなのではないかと思うのです。
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待てるものなら、ちゃんと待ちたい。
ゆっくりと育つのを見ていたい。無理に急かさず、その人なりのペースで整うのをちゃんと待ちたい。
本当は、そう思っている人のほうが多いのではないかと思います。
子育てなんて、まさにそうだと思います。
本当はもっと子どものオーガニックな成長を待ちたい。本人のタイミングが来るまでしっかりと見守りたい。
でも、お受験や教育制度など、世間の空気がそれを許さないわけですよね。待ちたいのに、待てない。信じたいのに、急かしてしまう。
そういうねじれのなかで、多くの大人たちがいま完全に疲弊し切ってしまっている。
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これは仕事も同じだし、人間関係も同じだし、共同体も同じだと思います。
本当は、相手の言葉になるまでゆっくりと待ちたい。相手が自分の問いを見つけるまで待ちたいんです。
相手がその人自身の時間に立ち戻ってくるまで、ちゃんとそばにいたい。
でも現実には、待つことは非効率とされ、遅さは不安や恐怖と結びつき、ゆっくりしていること自体が罪悪感の対象となってしまう、そんなジレンマです。
だからこそ、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にいま世界中の人々が心を動かされるのだと思います。
あの映画のなかでは、相手の時間を尊重することが、ちゃんと価値として描かれていたからです。
しかもそれが、説教くさくなく、宇宙SFという大きなエンタメのなかに自然に埋め込まれていた。
逆に言えば、宇宙の時間軸でなければ、もう描くことができない時間軸でもあるんだと思います。
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で、さらにここで僕が思い出したのが、寅さんのことでした。
『男はつらいよ』シリーズを観ていると、昭和後期から平成バブル期にかけて寅さんは、「私はいつだって暇ですから」と何度も主張するようになる。それがひとつの決まり文句のようになる。
あの「暇」というのは、単なる怠けや無作為ではなく、「相手の時間に合わせられる」ということだと思います。
誰かの話をゆっくりと聞けること、人の問題に巻き込まれる余白があること、寄り道ができること。
つまり暇とは、他者に自分の時間を渡せる状態のことでもある。
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ただし、そこには明確な危うさなんかもある。暇だからこそ、おせっかいをしてしまう。踏み込みすぎてしまう。つまりケアが過剰になる。結果として、他者とケンカだってしてしまう。
その滑稽さやバカバカしさを描いているのが、まさに「男はつらいよ」シリーズです。
だから「待てること」や「暇であること」は、単純に善として片づけられないわけです。
その昭和的なベタベタした繋がりがイヤで、令和は加速主義的な、なんなら自らの仕事仲間でさえ、いま僕らは「面倒な他者(人間)」ではなく、「賢いAI」のほうを選ぼうとしているわけですから。
でも、それでもなお人は、そこに憧れる。
忙しさと効率に支配された社会のなかでは、そうした過剰さ込みの「暇」や「待てる関係」こそが、逆説的にとても贅沢なものに見えるからです。
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『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が描いていたふたりの時間も、きっとそういうものだったと思います。
ただ効率よく協力していただけではない。もっと不器用で、もっと身体的で、もっと相手に巻き込まれていくような時間。
相手のペースをゼロから覚えて、相手が整うまで待つ時間。そういう信頼の築き方と、そうやって耕された時間や記憶のかけがえのなさ。
そこにこそ、ほんとうの幸福感がある。
たぶん多くの人は、もうそのことを知っているはずなのです。
知っているのに、それが社会(地球)のなかでは、なかなか許されない。だからこそ、この映画は今、ここまで世界中の人々に受け入れられているのだと思います。
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2つの映画を観終わったあと、人と人が、あるいは存在と存在が、どこまで信じ合えるのか。どこまで相手の時間を尊重できるのか。どこまで急かさずに待てるのか。そういう問いが見事に僕の中に残りました。
そのためにはお互いが「異星人」でなければならない。違う個体であると互いに認め合った先に生まれる信頼感です。
両者の映画は、いまの時代において何がいちばん失われつつあり、何がいちばん渇望されているのかを、見事に描き出している作品だなあと思います。
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繰り返しになってしまうのですが、もしかしたら僕ら現代人は、先へ行きたいのではないのかもしれない。
本当はただ、ちゃんと待ちたいんです。相手の準備が整うまで。相手がその人自身の時間に戻ってくるまで。
そして、自分に対してもまた、そういうふうに待ってくれる誰かをずっと求めていたのかもしれないなあと思います。
だからこそ僕は、そんな表の世界とはまったく異なる時間軸や価値観軸のなかで、相手のことをちゃんと待てる空間として、Wasei Salonというコミュニティを淡々と耕しているだろうなあと。
なぜいま自分が、Wasei Salonのような空間が大切だと思っているのか。そして、自分がこれから表社会とは異なる別世として目指していきたいその先が、またあらためて明確になったような気がします。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/03/29 15:04
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』と『プペル』の意外な共通点。
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