今朝配信したVoicyのプレミアム配信は、美容室らふる中村さんがゲスト回でした。


今日は、この配信を受けて、改めて僕なりに考えたことをゼロからこのブログに書いてみたいなと思います。

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この配信の中では、どうやってこの30代後半特有の「人生折り返したという実感」と向き合うのかが語られました。

そのうえで、どうすれば最後に「幸せだった!」と思いながら僕らは死ねるのか、という話にまで話題は及びました。

一般的には、社会的にある程度成功をし、温かい布団の中で、家族に見守られながら自然と息を引き取ることができること、それが幸せとされていると思います。

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でも、果たして本当にそれだけが幸せなのか。

配信の中でも言及したのですが、僕は若い頃に観た『嫌われ松子の一生』という映画が、なぜかとても強く印象に残っています。

あの映画の中では、主人公の松子は本当に悲惨な最後を迎えるのだけれど、じゃあ彼女は幸せじゃなかったのか、といえば決してそうではない気がしています。

この収録のあと、改めて20年ぶりぐらいに久しぶりに映画自体も見返してみたのですが、その思いをさらに強くしました。

納得感を持って選び取ることができれば、どんな悲惨な人生であっても、ひとは「引き受ける」ことができる。

その引き受けた先には、社会一般的に語られる幸福や不幸とは全く異なる次元の「救い」があるなと思います。

もっと、わかりやすい言葉で言えば、自己の人生に対して「成るように成ったという納得感」を持つことができる。

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この点、最近また「納得感」という言葉を使うひとたちが増えてきているような気がします。

これはきっと「引き受ける感覚」をあらわしているんだろうなあと僕は思います。

もはや世間の王道としての「正解」はなくなった。なおかつ、メインストリームとサブカルチャーが存在するわけでもなく、すべてが界隈へと分断した。

そうなると、余計に生き方がわからなくなり、結果的に「納得感」という言葉が自然と浮かんでくるのだと思います。

逆に言えば、そんな成るように成ったという「引き受ける」感覚さえ持つことができれば、僕らのこの「死生観」に対する不安や焦燥感みたいなものは、少しは軽減されると思うのです。

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じゃあ、現代の僕らの生き方を支配しているものは何か。

それは「古い物語」、つまり従来の社会が生み出した「空気」や「当たり前」のような、一般論としての価値観なわけですよね。

目まぐるしく変化する社会で、それらがまったく追いついてこなくて、みんな苦しんでいる。

とはいえ、そこから真逆に振って、世間の「あたりまえ」をなんでもかんでも解体し続ければいいというわけでもないと思うのです。

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この点、世間の「あたりまえ」を解体する、そんなカタルシスを感じさせてくれる物語を描いた作品が、昨今は映画でもマンガでも本当に増えた気がします。

それは、もちろん良いことでもあると思う一方で、それはそれで同時に危うさみたいなものも含まれているようにも思う。

なぜなら、それはやっぱりどこまでいっても「劇場」の中の「物語」だから。当然「真っ赤なウソ」でもある。

その真っ赤なウソから出た「嘘から出たマコト」を信じて感化されて、余計に生きづらさを抱えている若者なんかも、今は本当に増えているなと思う。

現代のマンガは、ファンタジーではなく日常系の作品が増えているから、余計にそう感じてしまいます。

さらに、あまりにもリアリティの強いSNSの存在も、そこに拍車をかけていてダブルパンチを食らっている状態なわけですよね。

でもそれらはどちらも「当たり前」とはまったくかけ離れた「物語」だからこそ、そのマンガには感動がうまれているはずであって。また、当たり前とかけ離れているリアリティだから、SNSも注目を浴びるわけですよね。

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そのように考えてくると、大事なことは他人がつくった「物語」にのっかって、過度な期待も、過度な幻滅もしないこと。

そうじゃなくて、自分で自分の「物語」を引き受けていく力が今求められている。

それは、大抵の場合、自らの「過去の物語」を終わらせる力こそが求められているわけですよね。

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そして、終わらせるときにこそ「黙ってついてきてくれるひと」の存在なんかも大事になる。

しかもちゃんと、「他者の課題」だと割り切ったうえで、です。

決して世間的に正しい方向へと導こうとしない、世間的には誤った方向に進んでいても、決して無理に引き止めようともしない存在。

なぜなら、それこそがきっといちばん今日語ってきたようなジレンマを引き起こす原因にもつながってしまうからです。

世間的な正しさや空気自体も、結局のところ、親や友人が良かれと思ってアドバイスしていて、良かれと思って暗に導こうとしてしまうわけですから。書籍『Z家族』の中に描かれているメンター親みたいな存在も、まさにそう。

でも、間違いなく僕らは今、その”良かれ”という導きというか、メンタリングやコーチングに苦しめられている。

「わかっているけれど、できないんだよ…!」ということでもあるし、そもそもメンタリングしている側やコーチングしている側にも何が正解であり、何が正しいのかがわからない状態であって、曖昧な正解らしきものだけを与えられてしまって、ソレが本当に正解かどうかは誰にもわからない。

そして、それを提案してきた側も、決してあなたの人生に責任を取ってくれない。それぐらい、僕らはいま先行きが不透明な時代の中を生きているんだと思います。

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その先にある人生を引き受けるのは、そのひと自身なんです。

つまり、それを引き受けるのは、どこまでいってもそのひとの責任なんですよね。

そのまんま「本人の課題」であり、ついていく人間にとっては「他者の課題」。

でもそれは決して突き放した冷徹なことではなくて、それこそがいちばん大事な要素でもあると思うんですよね。

言い方を変えてみると、その自分にとっての「他者の課題」、相手にとっては「本人の課題」を腹の底から納得感をもって向き合える、そんな姿勢を一緒に養っていきましょう、ということでもある。

そうやって、自分に訪れた境遇と向き合う勇気をお互いに持てるようになることが何よりも大事だと思います。

人生、本当に心持ちひとつだと思うからなんです。

逆に言えば、世間的にその状態や状況が正しかろうが間違っていようが、それはもうあまり関係がない。

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この点、先日NHKオンデマンドで配信されていた「こころの時代~宗教・人生~    地獄に佛のつかいあり」という番組を観ました。

この番組、なんだか本当にすごかったです。


東京・大森駅にある「地獄に仏」という小さな飲み屋を運営する、僧侶・戸澤宗充(そうじゅう)さんのドキュメンタリーで、密着取材中にまさかのハプニングが起こる。

そのハプニングを「受け入れる・受容する・許す」という本当に生々しい過程を番組を通して見せてもらったような気分です。

あえて具体的には書かないので、気になる方はぜひ直接番組を観てみてください。

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で、この僧侶の女性の方もそうですし、過去に何度もご紹介してきた抱樸の奥田知志さんなんかもそうだけれども、「誰も悪くない、相手を許す態度」をほんとうに深く実践されているなと思う。

どれだけ裏切られても、そこで怒りを示すかどうかは、いついかなる瞬間であっても自分の「自由意志」に任されているんですよね、本当は。

番組の中で起きたとある事件も、まさに恩を仇で返すような仕打ちなわけですが、それでも彼女は、その事件を起こした張本人を許すわけです。

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まさに、腹を決めた態度だなと思いました。

先日のF太さんとの配信の中であった、マンガ『ワンピース』の白ひげの態度の話「バカな息子を、それでも愛そう」というあのセリフ、そのままだなと感じます。


「こんな恩を仇で返すようなことをされて、怒らずにはいられるか!私にサンドバッグになれというのか!」と怒りをあらわにしたくなる気持ちもわかるけれど、そうじゃない。

そこにはたとえどんな状態や境遇であっても、必ず私には「自由」があるということです。

過去に何度も繰り返しご紹介してきた「刺激と反応のあいだには、無限の自由がある」というあの言葉を、いつだって深く自覚的でありたい。

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裏切られているのにもかかわらず、なんだか、ものすごく幸せそうに見えました。

腹を決めて引き受けている姿勢だな、と思った。それは抱樸の奥田さんもまさにそう。

コレなんだと思うんです、僕らが本当に求めている心的態度というのは。

そして、これこそが人間的成長であり、人間的成熟でもあるよなあと僕は思う。

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間違っても、決して社会のものさしに当てはめて、これが幸せ、これが成功と呼ばれるような、その基準値を超えていく自己像を追い求める姿勢ではない。

京セラ創業者の稲盛和夫の言葉である「人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、美しい魂をつくることにあり、人生とはそのように魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所。」

「魂を磨く」と書いてしまうと、途端にスピリチュアルじみてくるけれど、でもきっと今日語ってきたような心的態度を、自分自身が本当の意味で腹落ちさせて、持ち続けることができるかどうか。

それを養っていく、つまり磨いていく過程が、人生というある一定の時間と場所なんだろうなと。

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それさえ獲得することさえできればたとえ、どんな不幸が私の眼の前に訪れようとも、承けたもう精神、「引き受けます」と思えるようになる。

そして、誰のことも憎んだり恨んだり妬んだりしないで済むようにもなる。

僕は、この境地へと、みなさんと一緒に向かいたいなあと思うのです。

世間的な正しさとか、成功とか、幸せとか、「ふつう」とかにあまり目を奪われすぎないようにして、です。

僕は本当に強くそう思っています。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。