毎日のブログやVoicyを更新しながら、そのキープインタッチを繰り返す中で、意識的に「長尺コンテンツ」を出していくことが大切だなあと最近思い始めてきています。

今朝のVoicyの中で更新した、有料放送としての「ロングインタビュー」企画なんかも、まさにその実験の一環です。

そして、今日ちょうどたまたま同じタイミング更新されたPodcast番組「オーディオブックカフェ」もそう。こちらも60分超えの内容です。

今日は、いま改めて見直されている「長尺コンテンツ」の価値について、このブログの中で僕なりに考えてみたいなあと思います。

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この点、長尺コンテンツが今再び注目されるようになったのは、アメリカ大統領選がきっかけで、トランプの勝因のひとつにもなったと言われている、ジョー・ローガンのPodcastです。

世界一のポッドキャスターによるトランプ大統領に対しての3時間のロングインタビューが、とても話題になりました。

それだけ長いコンテンツであっても、非常に多くの国民に実際に聴かれているそうです。そしてその配信が選挙の勝敗を分けたとも広く語られています。

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これは、僕自身も実感としてあって、視聴者として今一番聴いている(観ている)のは、シラスの動画であり、ゲンロンカフェのトークイベントのアーカイブをよく聴いています。

一つのイベントが4〜7時間近くあっても、興味があるジャンルの話であれば十分聴けてしまう。

作業用BGM代わりに聴かれているとよく言われるけれど、僕は倍速視聴することも多く、6時間でも3倍速で聴けば、2時間程度ですべて聴くこともできてしまいます。

ライトなビジネス書や、新書を読むぐらいの、ちょうど良い長さになる。

また、それだけ長い時間ひとつのテーマについて語られていると、主要なトピックだけではなく、脱線したり、横道にそれたりしながら、多面的に語られていてその行ったり来たりする感じが、なんだかとてもいいなあと思うんでうよね。

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僕自身は、学生時代からオーディオブックをよく聴いてきたので、この長尺コンテンツの価値自体は、とても深く理解しているつもりです。

今回のオーディオブックカフェで、F太さんも似たようなことを仰っていたけれど、「1冊の本をオーディオブックで聴き終えられる体力があることが、陰謀論に騙されないこと」にもつながっていく。

多くの人は、結論や要約をはやく知りたがるけれど、それだと、あまり意味がないなと思います。

書き起こしたときに数万字、時には数十万字となるボリュームの中で、話が膨らみ広がりながら、それでも言い切れないことを感じ取ることのほうに意味があると思うし、その話を聞きながら自分の中に立ちあらわれてくる「なんでだろう?どういうことだろう」という内容を考えてみることのほうに、きっと価値がある。

その様々な「含み」みたいなものを依り代にしながら、自分の中にも「考える余白」が生まれてくると思うのです。

対話のなかで生まれてくる「言い切れない、言い淀む、ハッキリしない」みたいなところに真実性みたいなものが逆に宿る感覚って、いま間違いなくあるなあと思います。

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そもそも、今の「マスメディア不審」というのは、なんでもかんでも切り取りすぎたからだと思うのです。

しかもそれは、真実を届けるため、ではなくて、単純に視聴率や広告収益のためだけに、そのような構造に自分たちから陥ってしまった。

また、WEBメディアやSNSの投稿なんかは、さらに先鋭化させて、炎上や分断をわかりやすく煽る方向へと単純化していってしまった。そうすると注目されて、自己承認欲求も満たされるし、かつお金にもなるからです。

でも、その結果として、ちゃんと知りたい・学びたいという人たちは、マスメディアやSNSに流れてくる情報に嘘があるように感じるから、一定数の人々はノーカットの長尺コンテンツやロングインタビューの方向に流れていくわけです。

そうすると、ジョー・ローガンのようなコンテンツにたどり着いて、3時間ずーっとトランプの話を聴いてしまうということですよね。

そこに「寄り添い」みたいなものを、自然に感じるということだと思うのです。

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ただ、そこで似たような価値観だけに染まり続けてしまうから、きっとよろしくない。

このPodcastが批判的に、男性たち「マン」のスフィアで「マノスフィア」と呼ばれてしまう理由も、きっとそこにある。

大事なことは、異なる価値観の者同士が集って対話が行われていて、開かれたオープンの空間であること。

そこに多様な意見が参加するための余白があることなのだと思います。

つまり、「コミュニティの価値」みたいなものも、ここにはっきりと生まれてくるなあと思います。

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これは、Wasei Salonの読書会なんかもまさにそうなんですが、メンバーもそれぞれに違う価値観を持ち合わせた中で読書会が開催されることに意味がある。

しかも、その本を軸にしながらも、内容を鵜呑みにはせず、共に深めながら降りていくから、意味があるなあと思います。

それぞれに読み解き方が全く異なって「そんな読み方もあるんだ!」と新たな発見をすることができる。

ちょうど昨夜開催された読書会も、NHK出版から出ている書籍を題材にして読書会が開催されたのですが、この本自体は、ものすごくテンプレ的なNHK的な雰囲気がにじみ出ていて、どうしても教科書感が強くて、なんだか腑に落ちない部分が非常に多かった。

でもそれを逆手に取りながら「なぜこの主張は正しいのに、腹落ちさせることができないのだろう?」という話が読書会のメイントピックになっていき、このような視点の転換が、読書会の醍醐味だなあと思います。

言い換えると、ただ「おもしろかった」とか「役に立つ話を読めた」よりも、「どこか腑に落ちない、それは一体なぜだろう?」とそれぞれに頭を使って考えるわけだし、それを言語化して他者に伝えようと努力もする。

その中でお互いに「なるほど、そういうことか!」という発見なんかもあったりして、そこにものすごく大きな価値が生まれてくるなあと思います。

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さらに、この読書会のアーカイブ動画自体もまた、「長尺の音声コンテンツ」のようにして機能するわけですよね。

60分〜90分程度の読書会の様子を、あとから聴いた他のメンバーが非同期型であっても、自分自身がその場に参加したような形で考えることもできる。

この循環がきっと、Wasei Salonの中で起きている好循環の数々を生み出してくれているのだろうなあと思っています。

誰も決めつけないし、含みがあるとわかっているから、他者への敬意と配慮も自然と行われて、そんな気遣いが相互にあると分かるから、自分の意見も不安や怖れなくこの場であれば主張ができる。

その繰り返しを体感する中で、自然と自らに考える習慣も生まれてきて、それぞれが自立しつつも、お互いに支え合うという好循環が生まれてくるんだと思っています。

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で、そのためには、僕自身がこうやって、日々触れていてもそれほど負担感がない10分程度で読めるブログやVoicyを更新していくこともきっと大切で。その中に時々、長尺コンテンツも織り交ぜていくことが大事だなと。

そうすることで、ブログやVoicyの中で語られているような一筋縄ではいかないような話に対して、興味関心を持ってくれた人が「実際にそのような場があるなら、私もぜひ参加してみよう」って思ってもらえるはずだから。

実際にコミュニティとして結実していることに意味があるんだろうなあって思います。

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養老孟司さんの『人生の壁』のなかに書かれてあったように「コミュニティ」の価値や、そこに所属する価値自体を語ってくれるひとは多いけれど、じゃあ、開かれた形で誰でも参加できるコミュニティとして、それを主催している人は多いかと言えば、決してそうではない。

だからこそ、そんな場とコンテンツを同時に、自分自身で積極的に作成している感覚は、非常に強いです。

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切り取られた空中戦よりも、地上戦。

さらには、地下に潜っていくような機会や対話の空間を、せっせと淡々とつくっていきたいなあと思っています。

何はともあれ、Voicyの有料配信のロングインタビューや、Podcast番組『オーディオブックカフェ特別編』は、ぜひ聴いてみて欲しいです。

なるべく、わかりやすくするというよりも、多面的な視点を意識しながら語ったつもりです。



いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。