僕らは、学ぶという行為が何か新しい知識を獲得していくことだと思いがち。

言い換えれば、自分のなかに何かを「増やしていく」ような感覚を漠然と抱いてしまっている。

でも、実際のところはそうじゃないのかもしれません。

むしろ、学ぶとは、自分の中に積極的に「穴」を増やし、意図的に欠落感をつくりだす行為なのではないでしょうか。

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ここでいう「穴」とは、「入れ物」と言い換えてもいいかもしれません。

この入れ物に合う中身が何なのか、私はまだ知らない。

そうすると、「穴」だけが目の前にあるから、その穴に合わせたものを見つけてどうしても埋めたくなってくる。

そんな焦燥感や欠乏感が「入れ物に合うものが知りたい!」という好奇心に変わり、次第に自己を突き動かしていく。

しかし、穴が存在しなければ、そんな欠乏感も生まれて来ません。

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これはたとえば、観光において有名な観光地の確認作業になっていくことが非常にわかりやすい例だと思います。

僕らは幼いころから、教科書など様々なメディアを通じて、見たことのないものだけがドンドン自分のなかに増えていく。

次第に、その実物を観たいと願うようになります。だから観光の目的地として、その学んだ場所を設定してしまうのですよね。

知らない場所は、決して目的地にすることはできません。

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ただし、観光のようなわかりやすい例だと、この「入れ物(穴)」と「中身」の違いを把握しやすいですが、他の学びの場合はそうじゃない。

「入れ物」ばかりを集めている状態にも関わらず、中身もすべて揃っていると勘違いしてしまうこともしばしば。

それはまるで、裸の王様状態です。

教科書で写真を見ただけの観光地を「すでに行ったことがある」と勘違いしているのと何も変わらない。

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もちろん、この中身というのは、物理的な場所やモノに限りません。

たとえば「愛」なんて概念もそう。

最近、手塚治虫の『アポロの歌』という作品を読みました。

この作品は、手塚治虫が「性愛」を描いた非常におもしろい作品です。(完全に大人向け)

ネタバレになるのでここで多くは語れませんが、僕らは生まれたときに、「愛」なんてことを知らないで生まれてくる。

成長していく過程で、愛という入れ物(言葉)だけを学ぶから、なんだか知った気になるのだけれど、本当はその中身は空っぽです。

でも、だからこそ、その入れ物にハマるものを必死で追い求めようとするわけですよね。自分なりに再現してみようとする。

ただし、そうやって自ら再現しようとするものは、必ずそこに「差異」も生じてくる。

その性愛の「差異」をひたすら描き続けた作品が、この『アポロの歌』です。

そして、その差異こそが自己のオリジナルの「愛」になるのだ、という手塚治虫からのメッセージが描かれている作品だと僕は解釈しました。

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もし、ここで言う「差異」のイメージがつきにくければ、料理のレシピを再現してみようとするときを思い出してみてもらえると、よりわかりやすくなるかもしれません。

レシピには必ず、そのオリジナルを作り出した料理人がいます。

私たちがそのレシピを再現しようとした場合、その料理人がつくったときと全く同じ料理が目の前に現れるわけではない。

完全に再現することは、物理的に不可能です。

しかしそれでも、うまく完成した場合には自分なりの納得感がそこに生まれてくるはずです。

それは間違いなくあなただけのもの。つまり、オリジナルになるわけです。

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僕らはどうしても、オリジナルはゼロから自分ひとりでつくり出せるものだと信じている。

しかし、ゼロからはオリジナルをつくることはできません。

自らの学びを通じて、何もない自分のなかに、さらにドンドン「穴」を増やしていって、その欠落感を埋めていく作業こそが、オリジナルへの一番の近道です。

こうやって改めて書いてみると、人生とはなかなかに入り組んだ遠回りを要求してくるなあと思うけれど、だからこそ複雑でおもしろいとも言える。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。