コロナ以降、地方移住するひとたち(2拠点生活も含む)がとても増えています。

彼らは、なぜ地方に憧れるのか。

かなり唐突ですが、僕はルソーの「野生人(自然人)」の考え方の中に、その根本的な原因があるような気がします。

「何を言っているんだ?  俺は都会から地方に移住したが、人生で一度もルソーなんて読んだことはないぞ」と思う方にこそ最後まで読んでみて欲しいなあと思います。

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先日、以下の本を読みました。

本書から、都市に暮らす私たちが「エデンの園」的なもの(田舎や里山文化)に憧れてしまう、その理由について書かれた部分を少し引用してみます。

ー引用開始ー

なぜ、近代人は、善悪を知らない無邪気な人たちが住む「エデンの園」的なものに憧れを抱くのか?

いろいろな説明の仕方があるが、簡単に言ってしまえば、ルソー自身が『学問芸術論』で論じたように、文明化 = 進歩が、〝 我々”にさまざまな便益をもたらす反面、さまざまな害悪をもたらすからである。各人は次第に自己中心的になっていき、地縁血縁的に密な絆が解体し、人々は金銭を中心とした利害関係だけで結び付くようになる。

また、世界がどんどん合理化され、迷信が排除されていくと、信仰心を維持すること、神話的ファンタジーを働かせることが難しくなる。味気なくなった社会の中で、自分は孤立しているという疎外感を覚える人が出てくる。社会が合理化すればするほど、その傾向は強まっていく。

そうした文明化ゆえの疎外感・孤立感は、「我々は文明化の過程で何か大事なもの、かけがえのないものを失ってしまったのではないか?」という根本的な疑問へと繋がりやすい。そこで古き良き時代をめぐる懐古的な想像力が活性化する余地が生まれてくる。

引用元:今こそルソーを読み直す (生活人新書)

ー引用終了ー

まさに、ここに書かれているような「疎外感」が一番大きな原因なのだと思います。

じゃあ、私たち人類は本当に文明化するなかで「何か大事なもの、かけがえのないもの」を失ってしまったのでしょうか。

今となっては、それは誰にもわからない。

失ったと思えば失ったような気もするし、失っていないと思えば失っていないような気もする。

ただ、ここで大事なことは、このルソーが唱えた「疎外」感の感覚が、現代を生きる私たちの中にもう完全に備わってしまっているということです。

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啓蒙主義の時代以降、日本にも明治のタイミングで近代化におけるさまざまな文明と共に、この思想が輸入されてきました。

それ以降、日本人にもこの疎外感の感覚が完全に根付いてしまっている。

教育やメディアなど、ありとあらゆる手法でわたしたちの中に無意識のうちに練り込まれているはずなのです。(ジブリ作品のような国民的アニメや漫画の影響もあるでしょう)

だからこそ、誰もが「エデンの園」的なものに漠然とした懐かしさを覚えるし、そこに「帰りたい」と感じるわけですよね。

都会生まれ・都会育ちの人でさえ、田舎に「懐かしさ」を感じて「帰りたい」と思い、本当に移住してしまうのは、それが大きな理由のひとつだと思います。

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ここで誤解して欲しくないのは、「それが幻想だ」と言いたいわけではありません。

この染み付いてしまった「疎外」感を、むやみやたらと煽られないことが重要だと言いたいのです。

ともすれば、僕らはこれが人間の中に最初から備わっている一番純粋でプレーンな感情として捉えてしまいがち。

でも、もしかしたら後天的に身につけているだけかもしれないのです。

戦後にアメリカから持ち込まれた文化のように、たとえば「ディズニーランドに行きたい!」と感じさせられる何かと、根本的にはそんなに変わらない感情なのかもしれない。

それは、今となっては誰にも真実はわかりません。

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ただ、政治でも経済でも道徳でも、ありとあらゆる恣意的な広告やイデオロギーが、私たちの中に存在するこの疎外感を煽ってくることは間違いない。(コロナ以降、東京の地下鉄の広告などは驚くほどこの疎外感を煽る形に変容している)

そうやって、疎外感を煽られると脊髄反射のように反応してしまうのが人間です。

だからこそ、自分の中にあるこのツボ(感情のスイッチ)をしっかりと理解しておきたい。

さもなければ、従来の左翼思想的な運動のように、この疎外感からの解放を煽る純化の争いの中に、自らが巻き込まれてしまいかねないから。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。