僕らは、歴史を学ぶということは、過去に起きた出来事や事実を知ることだと思っています。

しかし最近、内田樹さんの『日本習合論』の「まえがき」に書かれていた問いの立て方を読んで、僕は膝を打ちました。

そこには、「神仏分離」についてこんな問いが立てられていたのです。

「どうして千年以上続いた宗教的伝統が政令一本で簡単に破棄されたのか?」

この冒頭の問いの立て方ひとつで、僕は一気にこの本に引き込まれてしまいました。

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なぜなら、そんなことをこれまで一度も考えたこともなかったからです。

「神仏分離」という歴史的な事実を学んだとき、「当時、勢いのあった明治政府が政策の一つとして断行したんでしょ」ぐらいにしか思っていなかった。

でも、言われてみればとても不思議なことですし、なぜ日本人はそんな選択を簡単に受け入れてしまったのか、ものすごく知りたくなります。

一つの事実だけで、歴史を理解しようとするのではなく、当時の歴史背景も考えて、その時代の状況を目一杯想像してみることで初めて、当時の人々が抱えていた本当の葛藤を知ることができるようになるのでしょう。

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この話は現代に置き換えてみると、とてもわかりやすいかもしれません。

今、この国ではこのまま「東京オリンピック」が開催されそうです。

100年後にこの事実を学習する子どもたちはきっと「2021年、感染症が広がるなか、東京オリンピックは開催された 」という事実だけを学ぶはず。

そして「100年も昔の話だから、きっと当時の人々は感染のメカニズムをちゃんと理解できていなかったんだね」ぐらいにしか思わないのでしょう。

でも、同時代を生きる僕らは、そうじゃないことを知っている。

では、なぜ当時の政府(つまり今の政府)は開催の中止を決断できなかったのか。

当時の(今の)有識者たちは、なぜ正しい論拠を提示して、政府の決定を阻止することができなかったのか。

そして、その他大勢の国民は、なぜ黙って粛々と従ってているだけで、政治参加せずに静観していたのか。

そんな疑問がわいてくるはずなのです。

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歴史的な事実だけでなく、周辺資料からそんな当時の葛藤を読み解く力。

それは、そのまま今の状況を判断する上でも非常に役立ちますし、これからの社会が進む先を見通す力にもなっていく。

優れた歴史作家の方は、まるでその時代にタイムスリップして、その時代の町を実際に歩き、その時代に生きる人々に直接取材してきたかのように歴史を書くことができてしまいます。

僕らからすると、それは魔法のように思えるけれど、しっかりと歴史を読めていれば、それらを手に取るように理解することができるようになるのでしょう。

歴史の決定には、すべて複雑な原因が存在していているけれど、その原因は往々にして似通っているわけだから。

時代がどれだけ異なっていても、同じ人間が判断することだから当然と言えば、当然のことなのかもしれません。

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過去の時代背景を学び、そこに存在した葛藤を理解することで初めて、いま自分たちが登っているこの同じ「らせん階段」の形状や材質、その設計方法を知ることができるのだと思います。

そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。