小旅行をした--。

PCはもちろん、スマホも置いて、Google mapsもなくていい。
鞄には本と紙とペンを携える。

こんなご時世、とんだ遠隔地に、飛行機や船を乗り継いで?

そんな調子ではなく、行き先は近所のコーヒー屋さん。

お昼まで寝る予定をしていたけれど、思いの外早く目覚めてしまい、時間は9時。

彼にそう伝えると、「3時間分の余剰の人生じゃん」とLINEが返ってきたので、そうか、何をしてもいい、本来なかった時間。とにかく何も気にせず、思い立ったことをしようと思い、いつも傍らにいる奴等を置いて出かけることにした。

コーヒー屋に向かう。まずは、頭の空気を入れ替える。いつものノートに今の気分、思いついたことを書いていく。ジメジメしていた頭の中が、アイスコーヒーを流し込むと同時にカラッと冴え渡る。

いつもなら「この漢字、どうやって書くんだっけ」と5分も経たないうちに、メモ帳を開く。もちろん、黄色いアプリ。しかし、今日はそれらを持ち合わせていない。

まあ、平仮名でも問題ないかとまたペンを走らせる。

次は、手元に開いた本に出てくる言葉の意味や漢字の読み方がわからない。しかし、それも考えるしかない。意味を推察して、また読み進める。調べるのは、また後にしよう--。


そろそろ数時間経っただろうかと時計に目をやると、まだ1時間しか経っていない。いつもなら、本を読みながら、合間に数件の返信をしている。時空が歪んだのかと思った。

緑のアイコンやレインボーのアイコン、はたまた青いやつに邪魔されない時間がこんなにも有意義だったなんて。いつも、わたしたちは、望まないタイミングで、望まない情報の訪問者に邪魔をされているということを意識するタイミングがどれだけあっただろうか。

情報に常に手綱を握られていて、欲しくもないタイミングでいらない言葉を投げかけられる。いくらそのメッセージが重要でも、嬉しいことも辛いことも心の準備のようなものは絶対に必要だ。

くるりも歌っているように「明るい話しよう、暗くならないうちに」といったところで、情報を摂取するには適切な用法、用量があるのだと思う。食後に飲むべき薬は食前に飲んでは胃が荒れる。


この数時間で、いつしか、自分の摂取する情報を自分でコントロールできなくなっていることに気付いた。現代に生きるわたしたちは、夜眠るまで、いつ矢が飛んでくるのかわからない、武士みたいな人生になってしまっている。


たった3時間、コーヒー屋さんとカレー屋さん。半径数km、車で15分くらい先の目的地。電波を置いて、出かけるだけで、どこでも小旅行になってしまう。これは皮肉だろうか、希望的だろうか。


3時間分の余剰の人生--。


きっと、本来は、人生なんて100年分の余剰なのだろう。いつでも電波を置いて、コーヒー屋に小旅行へ出かけられる気概で生きていたい。