僕たちは、自己の良心に従えば、自分の中に存在する迷いや絶望は自然と消えていくだろうと期待してしまいます。

悪人のように傍若無人に振る舞うのではなく、聖人君子のように遠慮会釈に振る舞うのだから、なんとなく迷いや絶望は減っていきそうだと感じてしまいますよね。

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しかし残念ながら、良心に従えば従うほど、僕らの迷いは増大し続けて、最終的には絶望してしまう。

なぜなら、自己の良心には限界がないからです。

たとえば、いま目の前で困っているひとを助けたとしましょう。

でも、そこで良心が満足することは絶対にない。

ほかにも困っているひとは多数存在する。LINEで繋がっている友人の中にもいるし、Twitterで繋がっている名前も知らない人の中にもいる。

そもそも世界に目を向ければ、今日の食事を満足に食べれないひとだって、いくらでも存在するわけです。

しまいにはSDGsなどに触発されて、人間だけでなく、動植物や地球まで救いたくなってしまう。

このように良心というのは無限定に膨張し続けて、どこまで自己の良心に従って行動すればいいのかサッパリわからなくなり、最終的には自己の無力感に絶望してしまうわけです。

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この点、哲学者のキルケゴールは、ひとは主体的に「あれか、これか」を必ず選ばなければならないと主張し、

こうした選択には客観的な正解はなく、あくまで私だけの真理があると主張しました。

このように「あれか、これか」を主体的に選択するような生き方を「実存的な生き方」と規定し、それには3段階あると言います。

まず第一段階として、快楽を追求する「美的実存」。

上述したように、傍若無人に振る舞う生き方です。

ただし、これを追求し続けると、必ず絶望にぶち当たると言います。なぜなら、倦怠感や不安感、虚しさが襲ってきてしまうからです。

どれだけお金持ちでも、幸せそうに見えないひとっていますよね。それは、まさにこの絶望の壁にぶち当たっている状態だと言えます。

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だから次に、自己の良心を追求する第二段階の「倫理的実存」に移行すると言います。

でも、ここでも必ず絶望にぶち当たる。

まさに上述したように、自己の無力さや有限さに対して絶望してしまうから、というのがその理由です。

だからこそ、キルケゴールはさらに高次の第三段階として「宗教的実存」が存在すると主張し、「単独者として神と向き合うこと」を強調するのですが、

僕ら日本人のように、特定の宗教(神)を信じない無神論者からすると、少し肩透かしをくらったような感覚になってしまいます。

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では、我々はどうすればいいのか。

僕の提案は、「自己の良心に従う範囲を初めから限定してしまうこと」です。実行する範囲を限定してしまう。

具体的には、困っているひとは自分の目の前で困っているひとに限定してみる。

無条件で助ける場合も「自分だったら、5分で解決できること」など、助ける範囲を最初から有限に留めておく。

募金する際も「自分の可処分所得の5%まで」など、出せる金額の範囲で募金することをあらかじめ決めておくのです。

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そうすることで、無力感や自己の有限さに絶望することを防げます。

「自分ひとりが、そんなことをしてみても、どうせ世界は変わらない」と思うかも知れないですが、大事なことは、そうやって各人が自分のできる範囲内で、小さな良心や善意を積み重ねることです。

ひとりの力は限られていても、各人が少しずつその余力を出し合うことができれば、その集合した力は絶大です。

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だからこそ、まずは自分から始めなければならない。

他者がどう振る舞おうと関係ない。自分から始めて、ペイ・フォワードの起点つくること。最初のひと波を、自分が起こしていく。

そうすれば、その波は必ず伝播していくはずだからです。

そして、その小さな波を、何度も何度も懇切丁寧に繰り返す。

それがいつしかバタフライエフェクトのように、大きな波となって、世界に伝播していく可能性を秘めているわけですから。

財がなくても、必ず起点となれるのがペイ・フォワードのいいところ。

この点は、仏教における「無財の七施」がとても参考になるのかなと思います。


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かなり説教くさくて道徳的な話になってしまいましたが、一方でとても現実的な話でもあるかと思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。