人間であれば誰しも、必ず不安や焦り、寂しさや恐れといった感情を抱くことってあるかと思います。

この感情は本来、なにか危険な状況下に人間が置かれたときに、人間をそこから「逃避」させるために、人類が何十万年もかけて獲得してきた進化の賜物。

逆に言うと、特定の場面においてこのような身体反応が起きなかったほかの人類及び霊長類は、進化の過程の中で滅びてしまったのでしょう。

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ただ、そういうふうにある場面が訪れたときに、自然と反応するように仕組まれている身体現象に対して、それを素直に信号として感知するまでに留めておけばいいものを、

私たち人間は、その身体現象に対して勝手に優劣を与えて「価値づけ」をしてしまっている。

しかもさらに厄介なことは「この身体現象にそんな価値を感じてしまっている私こそが、私なのである」と勘違いしてしまいます。

つまり、その価値づけに対して「同化」してしまうのです。

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具体的には「不安というネガティブな感情を感じている私こそが私なのだ」や、「この身体に病があって辛く悲しい思いをしている私こそが私なのだ」という風に。

でも仏教、特に禅の考え方が教えるように、そもそも自分なんてものは存在しません。

そのネガティブな価値づけを勝手に行い認識している「心」なんてものは、本来どこにも存在しないはずなのです。

存在しないからこそ、「心」が一体どこにあるのか?という問いに対して、

脳なのか、心臓なのか、はたまた腹部(丹田や腸内細菌)なのか、誰もその明確な答えを出せていないでいるわけです。

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つまり、自分が感知する認識も、それによって動いている身体も、あくまで現象を察知して認識しているだけの道具にすぎないはずなのです。

単純に、そうしないと滅んで(死んで)しまうから、感知しているに過ぎない。

もし、身体がエネルギー補給を望んでいるのに「お腹が減った」と認識し「食欲」を感じさせなければ、この道具である身体はエネルギー補給をしようとせず、突如エネルギー切れとなって、コロッと死んでしまいます。

にも関わらず私たちは、その「空腹」という認識にネガティブな価値づけをし、「ご飯さえも満足に食べられないのは私は不幸なのだ」というような形で、身体現象に「同化」してしまう。

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わかりやすく他の事例にたとえてみると、仮に日常的に使っている道具に対して、それが摩耗したり、劣化していく過程に、自己を同化させて苦しんでいるひとがいたら、それこそ頭がおかしいと感じるはずです。

具体的には、新しい靴を履いて、かかとのゴムがすり減っていくごとに「痛み」を認識し、そのただの摩耗に対して「摩耗は不幸だ」というレッテルを貼って、新品の靴とずっと比較しながら、「なんて私は不幸なのだ」と認識していたら、

「いやいや、それは靴なのだから、そうなっていくのは当然のことだよ!」と教えてあげたくなるはずです。

でも、私たちは常日頃から、心と身体という生まれた瞬間から与えられている道具に対して、ソレと全く同じことをやってしまっているのです。

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心も身体も本来道具であるならば、それらを丁寧に手入れしながら、なるべく大切に扱い、その道具の持てる力をその都度その都度、最大限に発揮すればいいだけのこと。

それは、私を「同化」をさせることとは全く違います。

そして、物であればいつかは必ず壊れます。諸行無常。

治せるところは治し、継ぎ接ぎできる部分は継ぎ接ぎしながら、最後まで道具として能力をまっとうして、使い尽くせばいいだけのことなのです。

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世間一般のみんなが、心と身体という道具に対して同化しながら一喜一憂しているからと言って、自分までそれを真似してしまう必要なんて全くない。

現代は、他者の同化する様子がSNSなどを通じて、目に見えやすいからこそ、より一層注意が必要だろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。