今の自分を俯瞰的に眺めること。それが、メタ認知だとされている昨今です。
たぶん、その感覚を促進させたのはスマホのカメラや、SNSの自己のタイムラインを遡るというような社会との関わり方、その仕組みだと思います。
実社会の中に、そのような自己を「他者」のように眺めることができるような場面が、一般人においてもいたるところに増えたことが「メタ認知」という言葉が一気に普及ししたきっかけだと感じています。
実際に、「メタ認知とは?」でインターネット上で検索してみると、「自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」です、と上位表示されてくる。
そこにセットで表示されている図式やイラストなどでは、必ずひとつ上の俯瞰した視点から自分が、自分自身を眺めているような絵が同時に表示されます。
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この点、たしかに、このような状況でも「メタ認知」の形態のひとつなんだと思います。
でも、僕はこの「メタ認知」の一般的な解釈と、それを促進しようとしている社会の潮流にこそ、現代の様々な諸問題が起きている要因があるのかなあと思っています。
言い換えると、人々がこのような一般的な解釈の「メタ認知」をすればするほど、より現在の社会問題は顕在化していくのだろうなあと。
なぜ、そのように思うのか?
その理由は、一般的なメタ認知をすることによって、見られる自分と、見る自分、そんな自分都合の「他者」を増やしていくことにほかならないからです。
そうすると、自分の価値観の中に、どんな変化が起きるのかと言えば、世間の中にその「相似形」を見つけようとしてしまう。
世間の中でいま問題となっていること、それと自分が見つけたもうひとりの自分、つまりそんな「他者」との相似形を見つけて、そこに私を当てはめて、すぐに「被害者」となってしまうのです。
そうやって、自らを俯瞰的に眺めれば眺めるほど、自分と同じような状況におかれているひとたちが、古今東西に存在していて、そのひとたちがどうなっているのか?を客観的に見ることができるので、それに重ね合わせるように、自分を簡単に「今よりも可愛そうな私」にすることができてしまいますからね。
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それが、まさに「ズルい」という感情にもつながっていく。
実際、哲学研究者の永井玲衣さんが最近ラジオ番組「Session」の中で話していましたが、いま子どもたちと哲学対話をすると「ズルい」という発言をするこどもたちが、以前よりも増えているそうです。
当然ですよね、そうやって自分の置かれているポジションを「メタ認識」することを、子どもたちに対して社会が強いているのですから。
その結果、他者と比較して、同じところだけではなく、違うところをみつけてきては、その違いのほうがより一層際立つように眺めてしまい、そこに不平等や不公平感を感じる。
その結果、素直に「ズルい」と感じる場面が増えるのも、当然のことだと思います。
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でも、本当のメタ認知というのは、私の認知構造自体をガラッと変えることだと僕は思います。
言い換えると、俯瞰した視点からの自己の観察じゃなくて、もっともっと自己の内部からの崩壊を体験するようなこと、それが本当のメタ認知だと僕は思います。
そんなふうに、自分にべったりくっついているものを、ちょっとずつ剥がしながら観察できるようになること。
もちろんその時には強烈な痛みを伴いますし、すぐにまたくっついて元通りに戻ってしまう。
でもそれをしない限り、私達は本当のメタ認知をすることはできないのだろうなあと思うのです。
あと、そもそもメタ認知とベタ認知というものは、そう簡単に切り分けられるものでもない。それらは常に、複雑に絡み合っているものであるはずです。
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この点、以前もこのブログ内でご紹介したことのあるモリス・バーマン氏の『神経症的な美しさ』という本があります。
この書籍の中で、戦中日本の状況を外国人の視点から分析しているなかで、非常に面白い話が語られていたので、以下で引用してみたいと思います。
マーシャル・マクルーハンがこんな指摘をしたことがある。もし魚に自分の環境の最もはっきりとした特徴は何かと尋ねたならば、その魚が話すことができたとして、最もありえないのは「水」という答えだろう、と。我々の世界観、無意識のプログラムというのは、この「水」であり、みながそのなかを泳いでいるのである。土居健郎や中根千枝(第 2 章参照) のように内省的認識を持つ日本人はほとんどいないだろう。自分たちの「 執拗低音」を乗り越え、集団心理と天皇崇拝から抜け出せなければ、私たちはみな敵に殺されてしまう、と破滅の間際に口に出せた人はほとんど皆無だっただろう。
ここに書かれているような、魚にとっての「水」を自覚するような作業、それが本来のメタ認知のはずなんですよね。
そして、本書の中でも何度も繰り返し取り上げられているような中根千枝や土居健郎、岸田秀なんかが日本人にとって、その「水」とは何かをド真剣に考えた方々なのだと思います。
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特に、中根千枝の名著『タテ社会の人間関係』の中には以下のような、笑い話のような話が出てきます。
今度は、その『タテ社会の人間関係』という書籍から引用してみたいと思います。
日本ではどんな会合に招かれても(それが西洋式な部屋だとしても)、招いた側の集団の成員の序列は、一目瞭然 であるのが普通である。招客のすぐ横が上座であり、入り口の方が下座で、発言の順序・量・態度といったものが、驚くほどその座順を反映しているからである。
そんなある会合で、「わが社はほかと違って、アメリカ式の能力主義を採用し、民主王的な経営をしています」などと、上座にいる部長などが誇らしげにおっしゃり、課長・係長は、「いかにも、その通りで」などという反応を(それぞれのポストに応じたからだの動かし方で)されるので、私はおかしさを必死にこらえて、「そうですね、アメリカの能力主義の日本版といったところを実現されているわけですね。もちろん相手はアメリカ人でなく、日本人ですから」と答えるのがせいいっぱいである。
能力主義の適用をこんなに一生懸命に実行されているにもかかわらず、根強い序列意識から少しも逃れられないということは、日本的社会の序列組織の根強さを遺憾なく示しているものといえよう。本当に能力主義が実行されているとすれば、序列意識は後退しなければならないはずである。
当時のこの会社のひとたちはきっと、冒頭で述べたような一般的な「メタ認知」を自分たちができていると信じていたひとたちだと思います。(当時はメタ認知なんて言葉はなかったとは思いますが)
そして、そのメタ認知をした結果として、自分たちがちゃんと理想的な方向へと変化していると思っているわけです。
でも、まったくできていないどころか、余計に自分たちの日本人らしさ、その共同体主義の負の側面を加速させてしまっているわけですよね。
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でも、この例が示しているように魚にとっての「水」のようなものからは、決して逃れられないもの。
逃れられないからこその「水」なのです。
この点、最近何度も言及している哲学者・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」が本当におもしろいなあと僕が思うのは、何を言っているのか、それがまったく”わからない”からなんです。
それは書籍が難解であるとか、論理が複雑であるとか、そういう話ももちろんあるのですが、やっぱり言語というのが、僕らにとって、魚の「水」にあたるものだからなんだと思います。
この「言語」というものを用いて「ゲーム」をしてしまって、この世の中で生きている以上、僕らは絶対にこの構造からは逃れることができない。
そしてそれを本当の意味で、認知することもできません。
だから逆に、私たちがとらわれてしまっているものを容易に変えられないものでもあるということを、本当の意味で理解できる。
この中で生きるしかないとも判断できる。
でもそれが、以前ご紹介した松下幸之助の「道」の話にもつながるのだと思っています。
具体的には「あきらめろというのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。」と。
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このように、気づき続けること、問い続けること、そしてハッとし続けること。
具体的には、当たり前に存在している水のありがたさ、空気のありがたさ、言語でコミュニケーションをすることができているありがたさなどなど、そんな数々の現実の神秘に、ただただ打ちのめされ続けること。
問い続け、かろうじて発見し続ける過程の中にしか、真の「メタ認知」というのは決して立ちあらわれてきてはくれないのだから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。