コミュニティ運営をしていると、よく聞かれる質問は「昔から、コミュニティというものが好きだったんですか?」という質問です。

質問者の方が聞きたいこと、その真意や言いたいことは、とてもよくわかります。

でもその上で、誤解を恐れずに言えば、コミュニティなんて昔からずっと大嫌いです。

そして今でも、この言葉を自分の口から発するたびに虫酸が走る。

この言葉を発する自分に対して、自分自身が常に「めちゃくちゃ気持ち悪いなあ」って思いながら語っています。

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この点、いわゆる対話型のコミュニティ運営のようなものをしたがるひとたちが必ずと言っていいほど持ち合わせているような、学生時代にいじめられていた経験とか、自らひとり図書館にこもっていた経験とか、そういう孤独の経験を、僕は全く持ち合わせていません。

どちらかといえば、ナチュラルに友人たちの輪の中に馴染めてしまいましたし、自分の立ち位置みたいなものをスッと把握し、周囲から求められている立ち振る舞いがどんなことなのかも把握できる人間でした。(そのうえでやらないことも多々ありましたが)

ただし、その中でもずっと「所を得ない」感覚はあり続けていたんですよね。

この「所を得ない」感覚というのは、最近読んだ『養老孟司の人生論』の中に書かれていた表現です。

この部分を読んで僕は、まるで自分の話をしてくれているかのように感動しました。

少し本書から引用してみます。

私自身の人生をその意味で「主観的」にいうなら、ほとんど一言になってしまいます。「所を得なかった」。 「所を得る」という言葉を、いつ知ったか、覚えてません。でもなんとなく自分が「所を得てない」ことは感じてました。世の中に、自分が「そこにいて当然だ」と思える居場所がなかったということです。家庭は別ですよ。でも若いときは、自分の家についても、そう感じてました。もちろんいまは、家に帰るとホッとします。


僕が、ずっと養老さんの思想に惹かれつづける理由は、まさにここなんだろうなあと思いました。

日本中にとどまらず、世界にも飛び出して様々な土地を歩き回り、自分の居場所というものは、この世には存在しないのだと悟った。それは、僕の場合、家族の中にも、です。

そもそもコミュニティや共同体というものに対して、僕自身がものごく絶望している人間なのだと思います。その理由は、一体なぜだかわかりません。

でも、そうなったらもう、一周まわって自ら「手づくり」するしかないじゃないですか。

絶望しきって、自分が欲しいものがこの世界には存在しないんだと本当の意味で悟ったのなら、もう自分でつくるしかない。

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この点たとえば、コミュニティや共同体というようなものが、人間にとって必ずしも必要がないものであれば、淡々と無視していればいい。

実際そうやって、多くのひとびとが興味を持っているのに、自分自身が完全に無視しているものは、僕にはいっぱいある。たとえば音楽やアート、料理やスポーツなんかもそう。

コミュニティや共同体も無視できるのなら、絶対に無視しているかと思います。それぐらい強い絶望感というか、対象それ自体に「わかり合えなさ」みたいなものを抱いてしまっています。

でも、とても残酷なことに、人間が生きる上でこれはどうしても必要なものなのですよね。

他のすべてを捨て去ることができたとしても、これだけは捨てされるような類のものではない。それを捨てた瞬間に、人間としての「死」を意味する。

衣食住すべてにおいて関わってくる、本当に厄介なものだなあと思っています。

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この点、マハトマ・ガンディーの名言に「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい」という言葉があります。

割とポジティブに語られがちな言葉だと思います。

僕自身も、過去にこの言葉を用いるときは「何か自分の中に抱いている理想のようなものを実現したほうがいいよ」という意味合いで使っていました。

でも今は違う。

もっともっと、ひどく冷たくて重たい言葉だと思えています。ゆえに、素晴らしい言葉でもあるなあと思うのですよね。

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話が少しそれてしまいますが、僕が最近の世の中に蔓延る圧倒的な「嘘」について、よく考えていることがあります。

それは、近年、人間の一番強い力は「自分の好きで得意なことに熱中すること」だと思われていることです。

たとえば最近、佐藤航陽さんが『成功は運か努力か才能か?についての考察』というnoteを書かれていて、運を引き寄せるために必要なものは、挑戦した回数がとにかく重要で、その挑戦する回数を稼ぐためには「好きで得意なことの場合は長く続けられるので有利になる」と書かれていました。


これは、圧倒的な真理だと思います。

でも、夢中になれるものなんて、意外といつでも簡単にやめられると思うのですよね。

引力としては、実はそれほど強くないとも同時に思うのです。好きで得意なことは「やってていいよ」と言われたら、いつまでもやっていられる類いのもの。

でも最愛のひとや子どもが声をかけてきたら、スッと手を引くことができるようなもの。

で、また一人の時間ができたら、時間を忘れて取り組んでしまうこと。それが「好きで得意なこと」だと思います。

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「寝食を忘れて取り組める」という言葉は、意外と脆い。実際は、その対象から離れて寝食ができているのだから。

そうじゃなくて、散々に絶望させられていてもなお、どうにかして希望を抱きたくなってしまうもの。そのようなもののほうが、本当は人間にとって「引力が強い」ものじゃないかと僕は思います。

言い換えると、嫌でも、なんども立ち上がらざるをえないもの、挑まざるを得ないもの。

それ以外に道がなくて、ふと自分の後ろを振り返ると、そこには断崖絶壁しかないもの。それが、本当のいちばん強い原動力になると思います。

でも、そのキワキワな挑戦って、本当に楽しくもなんともない。宮崎駿さんの言葉をお借りするなら、本当に「めんどうくさい」のです。

だから、人間は自らの絶望を包み隠して、自らを騙す方向へと向かってしまう。それこそがまさにエーリッヒ・フロムの言う「自由からの逃走」そのものです。

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たぶん「所を得ない」感覚を持っているひとなんて、それほど世の中には多くはないんだと思います。

上記で紹介した養老孟司さんの言葉を読んで感動する人間なんて、たぶん1,000人に1人くらい。いや、もっともっと少ないかもしれません。

でも、その1,000人にひとりくらいのひとのための場所をつくりたいなあと思う。それが自分の役割のような気も漠然としている。

養老さんは、本書の中で、さらに以下のように続けます。

私はそれほど偉くありませんが、歴史上の人物でいうなら、「所を得ない」という意味では、 芭蕉 や 西行 がそうだったんじゃないかと思います。なぜ日本中をウロウロ歩かなきゃならなかったかといえば、要するに「いるべきところ」がなかったからでしょう。西行なんて、家庭がなかったわけじゃない。それでも「娘を 縁側 から 蹴 落として」出家する。それならどこかのお寺でおとなしくお経でも 詠んでいるかというなら、放浪なんかしてる。 山頭火 なんて、なんなんですかね。     その根本にあるのは、なにかの感情、思いですよね。その逆を帰属感といってもいいかもしれません。帰属感を与えるのが、じつは共同体です。会社に勤めて、定年までいる。それができるのは、会社に自分がいて「当然」と、どこかで思っているからじゃないでしょうか。芭蕉や西行には、その種の帰属感がないんだと思います。

(中略)

それなら世間なんか相手にしない。そう思うかといえば、思いません。人一倍、世間を気にしているんだと思います。それでなければ、本なんか、書きません。本当のことは俺が知っている。世間はそれを知らないバカばかり。そう思って、本なんか書かずに、黙ってりゃいいんです。


これは僕の中に存在する、自分の中の底が見えない真っ暗な絶望のようなものを見事に言語化してくれていて、読みながら本当に涙が出ました。

僕自身も、西行や芭蕉、あと鴨長明の生き方なんかには本当に羨ましいなあと感じてしまいます。

でも、彼らは、当時の時代背景の中で、散々”やったんだ”と思うんです。

やったうえで、それでもなお当時の日本においては、最後の最後にその道を選ばざるを得なかった。

だからこそ、”何か”に救われた。

今の僕は強くそう確信していますし、ここが本当に重要なポイントだと思います。

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たとえばそれが「絶対他力」だとして、絶対他力というのはそうやって「逃げるもの、絶望するもの」のもとにしか、本当の意味では訪れてはくれない。

それが親鸞の「悪人正機」の話にもつながると思うのです。

そうやって逃げて逃げて、逃げ尽くした先にしか阿弥陀の本願、絶対他力というのは私のもとには訪れてくれない。

「一体何を意味のわからないことを言っているんだ、逃げている人間にそれが訪れるわけがないだろう」と思うかもしれないですが、でも違うんです。

最後まで絶望しきったから、救われるという構図はこの世界に十分にあり得る。

阿弥陀もイエスも、そういう人間をずっと探している。いや、そういう人間こそを探していると言い換えてもいいのかもしれません。

矢印で言えば「人間→神」という祈願のようなものではなくて、「神→人間」に向けられた探索なんです。そしてこれは、逃げれば逃げるほど、追いかけてくる性質のもの。

このことに気づくまで、本当にたくさんの時間がかかってしまいました。

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幸いにも、いまの時代においては、新たなツールや共同体の可能性を探ることができるものがドンドンと出てきてくれている。まさに日進月歩。

具体的には、オンラインサロンやNFT、AI、メタバース、そして日本という国家の本質的な衰退などなど。

今このタイミングにおいて、西行や芭蕉の方向に、まっすぐに進むのは正直ズルいと思う。

だから、まずは新たな可能性を試し尽くしてみたい。もしかしたら、それによって西行や芭蕉、養老さんには不可能だと感じられた「所を得る」感覚が得られるかもしれないし、結局また「所を得ない」かもしれない。

ただ正直に言えば、本当は少し「所を得ない」でいて欲しいと願っている自分も、存在していたりもします。

「ほら、やっぱりダメだったじゃないか」って言い放ちたい自分もいる。

でもそれは、散々やり尽くし、死んだあとの自分が、死んだあとの自分に対して言いたいこと。

それまでは、まだ多少なりとも時間が残っているので、絶望という原動力をうまく活かし続けながら、何度でも立ち上がりつつ、宮崎駿さんのように「めんどうくさい」と言いながら、向き合い続けたいなあと。

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そして、「所を得ない」次世代のひとたちというのは、間違いなくこれからも必ず生まれてくる。

決してその数は多くはないかもしれないけれど、必ず一定数は、どの時代にも生まれてくる。

その後輩たちに対して、何か少しでもヒントになるようなものを残してから、死んでいきたいなあと思う。

彼らの時代の中では、今はまったく想像さえできない未来のテクノロジーや、人間の可能性が存在していて、彼らは「所を得られる」ようになれるのかもしれないのだから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。