「考えることが大事」と世間ではよく語られています。

でも、そもそも人間のキャパシティは有限であり、なんでもかんでも考えている余裕はない。

にもかかわらず、世間には考えるべき重大なことが無限に存在しています。

それは、日々自分のもとに勝手に届いてくるニュースの数々を見ても明らかでしょう。

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しかし、だからこそ人間はひとつひとつ考えなくて済むように習慣化を行い、武道における「型」のようなものも作り出し、脳に直接負担をかけないようにオートメーション化してきた。もちろん他者と協力し合うこともそうでしょう。

つまり、自分の頭で考えずに済むように、その仕組みや機能を脳以外の分野に外部化させてきたわけです。

この歴史的な事実が、人間の考える能力の限界を如実に物語っていると思います。

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そうなると、次に重要になってくるのは「自分は一体何を考えるために、自己の有限の時間を使うのか」ということです。

言い換えれば、万人に共通して与えられている「考える自由」の行使の仕方が、非常に重要になってくる。

しかし、この自由を行使するにあたり、ふたつの問題(衝動)が立ち上がってくる。

ひとつは、「世の中にとってこんなに重要なことについて、考えないやつはバカだ」と、自分の考えていることを、常に他人に対して押し付けたくなってしまう衝動。

もうひとつは、世間から聞こえてくるそんな他者の大きな声に惑わされて、世間の「良し悪し」の基準に流されて、付和雷同してしまいたくなる衝動。

これらは、どちらも過ちであることは間違いありません。

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そもそも「考えること」、その時間の使い方に関して、絶対的な良し悪しの基準なんて、はじめから存在していない。

存在するのは、自分の人生の目指したい方向性にとって、「かけがえのない『考える時間』になっているかどうか」だけであって、それに則していれば、誰が何と言おうと自分にとっては「良い考える時間」のはずです。

他者が何に対して考える時間を使っているのかは、本来自分には全く無関係のことなはずなのです。

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でも、自分が今考えていることが正しい時間の使い方なのかどうか、「考える自由」が与えられてしまっているがゆえに、その不安が常につきまとい、

「他者が何を考えているのか」気になって気になって仕方なくなってくる…。

それゆえ、一番重要なことは、まずはこの構造自体をしっかりと把握すること、そしてそのうえで、常にこの構造に対して自覚的であること。

そうすれば、他者に対して自分の考えている事を強要したりもせずに済みますし、世間の偽りの良し悪しの風潮にも、流されたりせずに済むようになります。

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どうしても、「自分自身で考えることが大事」と言われると、何でもかんでも自分で考えなければならないと思ってしまいがちですが、

自分が考えなくて良いことは一切考える必要はなく、自分が本来考えるべきことに意識を集中していいはずなのです。

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以上のようなお話を、昨日Wasei Salon内で行われた『暇と退屈の倫理学』の読書会に参加しながら考えました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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