最近、『〈宗教化〉する現代思想』という本を読んでいます。

この本の中で「理性の暴力」について学び、とても深く考えさせられました。

戦時中のように、自分の目の前で人が死ぬ、たくさんの血が流れる、そんな現場を見せつけられれば、どんなに正論のように聞こえるような内容であっても、「理性の暴力」に対して違和感を持って、僕らはそのことに自覚的になれるはず。

しかし一方で、ソフトな「理性の暴力」には自覚的になりにくい。

そして、今も僕らはそんなソフトな「理性の暴力」の真っ只中にいるのかもしれないなと思います。

では具体的に、ソフトな「理性の暴力」とは、一体どんなことを指すのか。

本書から少し引用してみたいと思います。

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全体主義的な大量虐殺や迫害のような分かりやすい形を取らず、市民の日常生活を支えているメディア、労働環境、消費、教育、医療、家族・性生活、法制度など様々なインフラを〝合理的〟に規格化することによって、人々が予め与えられた正常=規範性( normality)から逸脱できないように仕向ける、より洗練されたソフトな「理性の暴力」もある。

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この点、犯罪を犯したわけではないにもかかわらず、炎上したことで、メディア(SNS)の力によって社会的に抹殺されてしまうことも、ソフトな「理性の暴力」のひとつだと、僕は思います。

メディアの集中砲火は、異端者を社会から排除することが目的かもしれないけれど、スマホを通して、その光景を万人が眺めることで、「自分もこうならないにしよう」と規範意識を強めてしまう。

すると多くの人は、社会における道徳や倫理観には決して反することがないようにと行動し始める。

それは、先日も紹介したミルの『自由論』の中で、100年以上も前から述べられている話です。まさに中世における公開処刑の機能そのものです。
また、フーコーが明らかにしようとしているのも、このソフトな「理性の暴力」にほかならない。
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きっと私たちは、気づかないうちにソフトな「理性の暴力」によって、自らの身体を、自分自身の手で縛り上げてしまっているということなのでしょう。

そして、この「理性の暴力」に支配されているど真ん中にいるとき、私たちはそのことになかなか気づけない。

それは戦争という悲惨な歴史、特に全体主義の愚かさが、私たちに強く教えてくれています。

まずは、現代に蔓延するソフトな「理性の暴力」の構造に対して自覚的になること。

それが今、とても大切なことのように僕は思います。

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