岩倉(磐座)信仰における「岩」は、

地球が何の目的も持たず、意味もなく、何度も何度も繰り返し隆起したり沈下したりする中で、たまたまそこに現れて存在していたものです。

しかし、人間はその岩を発見し、そこにカミ(らしきもの)を見出した。

よくよく考えると、とても不思議なことです。

でも、その御神体としてまつられている岩を、自分自身の目で直接見て観察してみると、そこに神(の依り代)を見出さずにはいられなかった理由は、なんとなくとてもよく理解できます。

「それはおまえの中に、八百万の神々を信仰する『日本人的な価値観(アニミズムのようなもの)』が過去の学習を通して、無意識のうちに知識として既に存在するからだろう」と言われたら、決してそれを否定することはできませんが、

ただ、その何十億年間の地球の無意味で目的のない繰り返しのなかに、人間は何かを発見し、意味を見出してしまうことは、紛れもない事実だと思います。

人類のそんな何気ない発見が、次第に信仰心へと発展していき、神道や神社仏閣を作り出すことにつながって、国をつくるところまで至ったわけです。

もちろん、現在に続く天皇制だって、その産物のひとつと言えるでしょう。また、その天皇制がこの国に何度も歴史的な転換期を及ぼしたということは、既にみなさんもご存知のとおりです。

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で、ここで話はガラッと変わりますが、人間の身体(機能)も、もしかしたらこの「岩」のようなものなのかもしれないなあと思うのです。

どう考えても、神(らしきもの)の所業のようにしか思えないこの身体でさえも、何億年もかけて、ただ無意味な目的のない繰り返しの過程を経て、そこにただ存在している岩のようなもの。

地球が何度も何度も、隆起を繰り返す過程を経て、たまたま偶然、今ここに人間として存在している。

どうしても私たちは、その一つ一つの部位や機能に対してその目的(有利や役に立つなど)を見出してしまいたくなってくるけれど、たまたま結果的にそうやって変化して、今ここに存在しているだけなのだろうなあと。

単細胞から始まり、次第に生存本能としての「目的」が生まれて、身体の各機能を拡大・援用させながらなんとか存在している姿が、この身体。

しかし、そうやって自然の荒波の中で何億年も循環し揉まれ続けることで、どう考えても、最初から全てを計算したとしか思えないものとして、ソレがソコに傑出した。

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そんなことを漠然と考えてくると、

だとすれば、岩を磐座として発見し、観察し、理解して、そこに意味を見出していく人間のこの「意識」とは何なのか。

偶然なのか、もしくはそれさえも最初から「自然」の中に組み込まれていた一部であり、それが人間として立ち現れてきたものなのか。

つまり人間は、ただの岩を自ら「磐座」として"発見してしまった"のか、それとも何かしらの意志によって"発見させられたのか"という問いが、自ずから立ち上がってきます。

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「そんなこと考えてどうするの?」と思われることかもしれないですが、「ポストヒューマン」を考えるうえで意外と重要なことだと思うのです。

岩を発見させられたのであれば、ポストヒューマンは、これからも何の目的を持たず、どこまでも変化(進化)し続けることでしょう。

でも人間が「自然」から離れて、自ら発見してしまったのであれば、きっとポストヒューマンはどこかで破滅するのかもきれない。

そんなことを漠然と考えてしまう、今日このごろです。