今朝、こんなツイートをしてみました。


大型の本屋さんで、1時間ぐらいグルグルといろいろな棚を眺めながら、この2冊を選びました。

特に『君たちはどう生きるか』は「オーディオブックカフェ」の中でも過去にご紹介していたことがかなり大きかったと思います。

昨年この本を改めて聴き返してみて、僕が今度はこの作品の中に出てくる「おじさん」の役割を担う必要があるのだと強く実感したんですよね。

その責任感のようなものを感じていなかったら、今回何か本をプレゼントしようとも、きっと思っていなかったはず。

そういう意味でも、子供の頃にすでにこの本を読んだことがあるという人にも、30代過ぎたあたりで、もう一度、今度はおじさん目線でこの本を改めて読み返してみて欲しいです。

このあたりの詳しいお話は、ぜひ「オーディオブックカフェ」の配信回を実際に聴いてみてください。

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で、今回プレゼントする本を選ぶ基準として、ものすごく考えたことは「自分で言葉を尽くすよりも、何倍も上手に自分の伝えたいと思うメッセージ、その真意を伝えてくれる本とは何か」ということでした。

それはつまり「僕は、一体何をメッセージとして次世代に一番強く伝えたいのか」と深く自らに問い正すことにもなりました。

この点、僕はさんざん考え抜いた結果「自分自身で考えてみることが大切だ」というメッセージを改めてしっかりと伝えたいなあと思ったんですよね。

他のすべては譲れても、それだけは絶対に譲れない部分だなあと。

世間が提示してくる「正解」ではなく、自分自身で考え抜くこと。

その重要性や、その意味を中学生にもわかりやすく、そして徹底的にその重要性を丁寧に伝えてくれるのは、この2冊が圧倒的に優れているなと思ったわけです。

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今回、次世代に何かバトンを手渡そうとするときに、何がパッケージ化されていると、嬉しいと思うのかを考えるいいきっかけにもなりました。

逆の言い方をすると、一体何が残っていると、次の時代を生きる僕らのような人間が「本当に遺してくれてありがとう」と素直に嬉しい気持ちになるのかという視点を得られたのは、本当にとってもいい経験だったのです。

もちろん、このプレゼントした本が、実際に甥っ子にすぐに読まれることは期待していません。

そして、たぶん読まれないまま放置されることも、間違いないかと思います。

僕が、甥っ子の立場でもまず間違いなく放置します。

でも、それでも部屋の本棚に、ちょっとでもこれらの本が刺さっていて、何気なくページをめくる日がやってきてくれたら嬉しいなあと祈るような気持ちで渡しました。

あとは、中学入学のタイミングで、この2冊をもらったことがあるということ経験自体がいつか大きな財産になるだろうなあとも思っています。

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今年、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』の映画が世間で話題になるはずで、映画館に観にも行けば、きっと原作だって気になる日がやってくるだろうなあと。

実際、昨年『スラムダンク』の映画を観て、強く感銘を受けたようで、最近はスラムダンクのマンガにも触れ始めているようでした。

まさか、甥っ子の口から「豊玉戦」の話を聞くことになる日が来るとは、夢にも思っていなかった。

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さて、いま僕も含めて多くの若いひとたちが、子どもを産まないという選択をしているかと思います。

でも、それはその決断をした時点で、もう次の世代にバトンを渡したり贈与をしたりしなくても良いということでは決してないということも、同時に強く肝に銘じておきたいところ。

むしろ、斜めの関係性のあり方、そのバトンの渡し方が、これからはより一層大事になってくるのだろうなあと思うのです

その古くて新しいバトンの渡し方を考える責務が、僕らには間違いなく存在している。

それは「血縁関係がある・なし」関係なくです。

同じ国に生きているおじさん的、おばさん的存在として。

なぜなら、今はインターネット上で誰もが簡単に不意につながることができて、自然とおじさん的存在や、おばさん的存在のようになることができるのですから。

そのときに縦の関係、具体的には親や祖父母には絶対に教えることができないことを、まったく違う逸脱した生き方をしている僕らのような人間こそが、そこから見えている自分たちの景色をしっかりと次の世代に伝えていく必要がある。

以前も語ったように、人間は本当に欲している25個のうち、たった5個の景色だけしか観ることができないのだから。

お互いの視点や視座から見えているその景色を、素直にお互いに共有するほかないわけです。


そんな社会の中での役割分担のようなものを改めて強く実感した日々でした。

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これも、自らの実体験を通じて体感しなければ、決して気づくことはできなかった話だと思います。

このことを気づかせてくれた甥っ子の存在には、感謝してもしきれない。

プレゼントを与えたのは僕であっても、僕が大事なものを与えてもらったような気分です。

きっと、ひとは誰かに何かを贈与しようとするときに、こうやって受け継いでいきたい大事な何かを必死で考える契機にするのだなあと。

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そして、もし今後、日本語というものがなくなってしまったら、これさえも受け継ぐことができなくなるかと思うと、なんだか辛く寂しい気持ちになるなあとも感じました。

これを読んでくださっている方々は、日本という国から、日本語という言語がなくなることなんてありえないと思われるかもしれない。

でも現に、日本の人口が毎年急激に減っていて、更に日本を見捨てて海外に出る大人たちが今のように増えてくれば、母国語であった日本語が、あまり深く理解できないという子どもたちが増えてくることはもう間違いない。

実際、僕はクラスの3分の1が帰国子女という変わった高校に通っていたので、外国語のほうが母国語である日本語よりも得意だ、という帰国子女の日本人に何人も出会ってきました。

彼らは、大人になっても深い思考はすべて外国語で行ってしまう。

日本語はあくまで、日本という国で暮らしていく上で必要になってくるもので、考えるための言語ではなくなる可能性というのは十二分にある。

僕らにとっての英語や中国語がちょうどそのような言語となっているように。

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このままいけば、大学の授業も、そのための教科書や教材も日本語ではなくなる可能性が非常に高い。

きっと、リベラルなひとたちはそれの一体何が問題なんだ、と思うはずです。

でも、それがものすごく重要な変化だと僕は思うのです。

言語だって、その土地の「気候風土」や「暮らし」と強くひもづいているものなのだから。

それはきっと、和辻哲郎の間柄的存在のような解釈や、鈴木大拙の「日本的霊性」なんがのような話がそうなのかもしれない。

この点、近年ドラマにもなった小松左京の名作『日本沈没』も、日本というものがなくなったときに、それでも残る日本的なものは何かということを小松左京が描いてみたくて、日本という「国土」自体を沈没させようとしたらしいです。

こういった、アイデンティティの中に存在する言語化できない機微のようなものを、理解するためには、その国の母国語で描かれたものを時間をかけて読む必要が間違いなくあるだろうなあと。

風土や自然との関係性を全く意識することがない生成系AIが跋扈する時代に、これらの要素のほうがこれからはより一層重要になってくるはず。

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そのうえで、僕が次の世代に遺したいのは、日本という国土の中で育った人間が「考える」と過程を通じて自然と形成してくるものです。

自分たちの世代のせいで、それを絶対になくしてしまいたくない。

だからこそ、その伝え方がいま強く問われているなあと思うわけです。

現状は子育てをしていない、子育てをする気もサラサラないという若いひとにこそ、ぜひ今日のお話が届いていて、何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。