世間という「空気」がつくり出す父権的な介入、それを社会の中に見つけるたびに、僕はなんだかものすごく大きな絶望感のようなものを感じてしまいます。

自分は、なぜこのような事象に対して、強い絶望を感じてしまうのか。

それはよくわかりませんが、これについては、これからもずっと「問い続けないといけない問い」のひとつだと思っています。

今日は改めてそんなお話を少しだけ。

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今回、なぜまたこの問いをまた想起させられたのか?

蒸し返したいわけではないので、サロン内の投稿だけにしか具体名は出さないですし、なるべくこれを読んでいるみなさんにも言及はしないで欲しいのですが、ジブリの鈴木敏夫さんとタイ人のフォトグラファー・カンヤダさんの関係性について書かれていた週刊誌の記事が大炎上したことがその発端でした。

僕が他人の炎上案件に、心痛めるということはまずない。

ただ、今回の炎上案件はなんだか本当にズドンときました。

幸いなことに、鈴木さんは普段から「炎上は気にしない」と仰っているので、今回も何も感じていらっしゃらないと思うのが、唯一の救いです。(というかたぶんネット自体を見ていない。)

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そして僕は、似たような話を以前もこのサロン内で「ストックホルム症候群」の話として、サロン内限定投稿で書いたことがあります。

それを繰り返すと、ストックホルム症候群とは、精神医学用語の一つで、 誘拐や監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象です。(コトバンクより)

きっと、ご存知の方も多い概念だと思います。

僕はこの言葉の用い方には、ものすごく慎重でありたいと常々思っています。

この言葉を大上段から振りかざして、鬼の首をとったかのように他者の関係性を断罪するように振る舞う大人たちが、まったく好きになれないというのが、その大きな理由です。

この用語はあくまでも、人間一般において、そのような状況に陥る傾向があることを理解し、自己の行動や決断を振り返る(確認する)ときだけに、用いるべきものだと思います。

たとえば、毎度の例で申し訳ないのですが、KinKi Kidsはジャニー喜多川さんのことが大好きで有名です。

ジャニーさんの死後、ふたりでジャニーさんの曲を作ったりもしています。

とはいえ、彼らがジャニーさんに見出されたときは、まだふたりが中学生のころです。当時から、特別にものすごく可愛がられていたこともよく知られている話ですよね。

その後、あれよあれよと一躍大スターになっていたことはみなさんも知るところだと思います。

彼らが、中学生の頃から死ぬほど働かせれていて、パニック症候群や過呼吸になっていたことなどを考えれば、これだってひとつの「ストックホルム症候群」だったと言えなくもない。

というか、今となってみれば、教科書どおりの典型例だと言えるでしょう。

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そして最近だと、このテーマを1番わかりやすく描いてくれているのは、過去に何度もブログでご紹介してきた映画『流浪の月』。

こちらは大学生の男の子と、9歳の女の子の心が通じ合った関係性は存在するのか、というお話でした。

この映画の中に描かれていた二人の孤独、その衝撃というのは僕にとって本当にドンズバのメッセージでした。

過去に観た映画の中でもトップ3に入るぐらい、自らの中にある言葉にできない「絶望」を本当に上手に描いてもらったような感じがしたのです。

ほかにも、明治維新後の徳川慶喜に慕った人たちや、終戦後の昭和天皇を慕った人たちなど、世間一般の考え方でいえば、間違いなくストックホルム症候群だといえなくはない事例は山ほどある。

でも、彼らの本当の気持ち、その置かれている状況や背景なんかも含めて、ちゃんと理解しようと思ったら、決してそんな軽々しい言葉で断罪することなんて、絶対にできないと思うのです。

たとえ、客観的な要件がすべて揃っているとしても、です。

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世間一般的に語られる「犯罪者」や「悪の指導者」のように認知されている人間に対して、肩入れしている人間はすべて「ストックホルム症候群」で、十把一絡げにするのは本当に乱暴な議論だなあと思わずにはいられない。

本来は、誰も第三者の視点から、それを断定することなんてできないはず。

パターナリスティック(父権主義的)に介入していいわけなんてないんです。

少なくともインターネット上で、その野次馬精神から、赤の他人が首を突っ込んでいいことなんて何一つない。僕は本当にそう思います。

そしてこれは「共依存」なんかにおいてもまったくそうですよね。

「あれは、ストックホルム症候群による洗脳だから」とか「あれは共依存の関係だから」とか、他者の愛着やあまり世の中に存在しないような関係性を目の前にして、何か気持ち悪い昆虫を眺めるかのように、踏み躙っちゃ絶対にいけない。

本来は「信仰の自由」ぐらい厳格に保護されるべき対象だと僕は思っています。

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で、ここからが今日改めて深く考えてみたい部分なのですが、なぜひとは他者の関係性に対して、父権的に介入したがるのか。

これが僕の中にずっと存在している大きな問いです。

具体的には、何か「あるべき姿」を強く求めて、それが社会的に正しい関係なのかどうかを、他者同士の関係性においても判断せずにはいられなくなるのか。

言い換えると、そこから逸脱していると判断した瞬間に、一斉に石を投げて抹殺しようとし、常に周囲の環境がそうなっていないかどうかをお互いに必死に監視し合うのか、です。

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この点、最近おぼろげながら見えてきたのは、みんな何かの枠に当てはめて、自ら人間関係を構築しようとするからなのだろうなあと。

人と人との関係性を構築するうえで、最初に枠があって、その枠のによって初めて自由に振る舞えると信じているひとがあまりにも多いように感じています。

具体的には、家族や恋人、友達や仲間、先生と生徒、社長と社員、お客さんと従業員などなど、対人関係を、何かそうやって先に想定される枠のようなものがあって、そのテンプレや枠に支えられて初めて、人間関係を構築できるというひとがこの世間の大半を占めている。

だからこそ、その枠を壊されてしまうと、困っちゃうという人が世間には圧倒的に多いということなのでしょうね。

それがないと安心できない。枠の補助なしに関係性の構築の仕方が、そもそもわからない。

それは「社会的なノリ」や「空気」と言い換えてもいいかもしれません。だからこそ、そこから逸脱し、それを壊そうとしているやつは絶対に許せない。

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でも、そのような枠がひとつのきっかけにはなり得たとしても、決してそれだけが正解ではないはずなんです。

本来的には、人間関係というのはもっともっと一回性の強いもの。

それは「物自体」と同様、「私」と「あなた」の間にだけ構築されるものであって、関係性だって何ひとつとして「同じ」ものなんて存在しないのだから。

性別や年齢、国籍や身分など、そういったものは一切何の基準にもならないはずなのです。

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この点、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』も似たような問いを描いていた作品だったように思います。

僕は、ジブリ映画の中で一番好きな作品は間違いなくこの映画なのですが、この映画の最後の場面で、月からかぐや姫を迎えに来るシーンがある。

あの父権的な介入の残酷さといったら、ない。

そして、そこに添えられている「天人の音楽」という楽曲も、あまりにも軽快な音楽で拍子抜けするほどです。

その軽快さがより一層、絶望感を逆に掻き立てるものになっている。このシーンに、あの音楽を用いた高畑勲という人は本当に天才だなあと思います。

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社会の父権的な介入によって、切り裂かれる関係性の残酷さに、どうしたら日本人はほんとうの意味で気づいていくことができるのか。

そして、そんな世間の「ノリ」や「空気」に流されずに、もっともっと個別具体的な事象として、それぞれがそれぞれに向き合い、それぞれの関係性を自らの意志でゼロから構築していくことができるのか。

日本最古の物語だと言われている「竹取物語」から、ずっと描かれてきたテーマでもあるわけだから、日本人には本当にむずかしそうなことではあるけれど、これからもずっとずっと個人的には考えていきたいこと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。