本日、これからの暮らしを考えるウェブメディア『灯台もと暮らし』の中で、久しぶりに対談記事が公開されました。


今回の対談は、何度も過去のブログやVoicyの中でご紹介したことがある発酵デザイナー・小倉ヒラクさんと、石見銀山に本社を構える群言堂・松場忠さんの対談記事になります。

この取材には、僕自身も同行させてもらったのですが、本当におもしろいお話をたくさん聞かせてもらうことができて、非常に刺激的な対談でした。

で、この対談内で僕が特に印象に残っているお話は「観光客と暮らしをつなげるのは、ものをつくっている場所」という部分です。

本記事からその部分を少しだけ引用してみます。

ヒラク    国内でも、いろんな場所に行くし、石見銀山みたいな重要伝統的建造物群保存地区の場所にもよく行くんだけど、ここはイケてるなって思うのは、ものづくりをしている場所なんだよね。人の暮らしをそのまま見てほしい、見たいっていうのはそうなんだけど、暮らしだけがあっても、人に見せる理由がないんだよね。暮らしを見せる機会が必要で。

忠    うんうん。

ヒラク    観光で来た人たちと暮らしをつなげるのは、ものをつくっている場所。もともと暮らしがあって、ものづくりをしていたところでも、重伝建とかがきっかけで観光地化すると、土産物屋とカフェと宿だらけになっちゃう。大森町の魅力も、ものづくりをしていて、そこに食とかクラフトとかが集まってきていることだと思うんだよね。


このお話を聞いた瞬間、僕のなかで本当に衝撃が走りました。

なぜなら長年、思考の棚においてあった「わからないままになっていた問い」のその答えが突然、降ってきたような感覚に襲われたからです。

これは、本当に確かにそのとおりだなあと強く膝を打ったんですよね。

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僕自身、これまで国内外問わず、さまざまな観光地や、歴史的な文脈がある地域に訪れて、それぞれの特殊性のようなものを肌で感じてきました。

その中で、今も現役で生きているなあと感じられる地域と、もうすでに死んでいて何か「まがいもの」を見せられている感じがするなあという地域が、明確にわかれるのです。

それは喩えるなら、根が腐って命の通っていない大木や、大型動物の剥製を見せられているような気分です。

最初は、それが「歴史の長さ」に由来するのだと思っていました。

でも、そこにどれだけ歴史や伝統が過去に存在していたとしても、まがいものは、なぜかちゃんと「まがいもの」に見えてしまう。

つまり、歴史の長さではないことは間違いなさそうなのです。

だからこそ、ずーっとその明確に異なるポイントが何かがわからなくてモヤモヤしていました。

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具体的に、「生きている」と感じさせてくれる定義とは何か。

そんなモヤモヤを抱えている僕にとって、ヒラクさんのこの定義は、本当にそのとおりだなあと思ったのです。

確かに思い返してみれば、あの土地もこの土地も、ものづくりがちゃんとされている現場が町の中に存在していた場合には、それが生きていると感じられる。

そして、島根県の石見銀山なんかはまさに、その代表例だと言えるでしょう。

どれだけ全盛期の頃と比べて規模が縮小していたとしても、その町に「ものづくり」がしっかりと根づいてれば、今も実際に生きているなあと強く感じられる。

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この点、Wasei Salonのイベントの中で以前「生きたまま残っているのと、剥製として残っている場合、同じように残っていると言っても、まったくその意味合いは異なる」という話が対話の中で生まれてきました。

そのときに具体例として挙げられていたのは、たしか伊勢神宮とコロッセウムの違いだったと思います。

これも、まさに広義の「ものづくり」による文脈なのだと思うのです。

具体的には、人間が「ものづくり」という活動をしていると、そこには様々なことが自然と付帯してくる。

まさに宗教的な儀礼のようなものは、本当に一番わかりやすい存在だと思います。

つまり、ひとびとの暮らしが、節々に自然と立ちあらわれてくるわけですよね。

そして、この「自然と」というのが最大のポイントだと思っています。

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それは意図して生まれてくるものではないし、意図した瞬間には、もう完全に死んでいる。

どれだけ外形的に同じような状態をつくりだしたとしても、そこには雲泥の差があります。

これは、最近何度も繰り返しお伝えしている「ネタをつくるためにする旅と、旅をしていたら自然とネタができてくるの違い」とまったく同じような話だと思っています。

その土地に歴史があり、伝統があったとしても、観光客に向けて「地域にお金を落としてもらうための「ものづくり」をしてしまっている場合においては、その瞬間、もうどこまでいってもその「作為性」のようなあざとさは排除することができなくなる。

あくまで、地元の暮らしに根付いている、それこそ「地産地消」や「テロワール」のような文脈を持っているものづくりが、ものすごく重要になってくるのだと思います。

それは「意味」や「必然性」などと言い換えてみてもいいのかもしれません。

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そして、この視点は、2023年以降はさらに重要になってくるかと思います。

なぜなら、これからは生成系AIによって、様々な「生きているように見せかけるもの」が多数、この世の中に何か明確な目的を持って生み出されていくからです。

でも、それはどこまで言っても作為的にならざるを得ない。

そして明確な目的を持って生み出された「いのち」というのは必ず「レプリカ」になってしまう。

でも、「いのち」というのは本来、目的を持たずに生まれてくるものです。

それはどんな「いのち」であっても同様のこと。

だからこそ、より一層、嘘がつけない「ものづくり」の価値がこれから相対的に高まることはもう間違いないと思うのです。

これは、つくものでもなく、産むものでもなく、自然と成るものです。

その土地の気候風土に根付いていて、切っても切り離せないものづくりが、そこに自然と立ちあらわれてこない限り、本当の「生きている空間」にはならない。

ガンディーなんかはきっと、そのことを本当によく理解していたからこそ、イギリスからの独立とは直接的にあまり関係がなさそうな「スワデーシー(国産品愛用)」のような運動も行っていたのだと思います。

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現段階においては一体何言っているのか、いまいちソレがよくわからないと思われてしまうかもしれません。

しかし、目的を持った「いのち」がこれから世の中に大量に生み出されていくと、きっとその真意も少しずつ伝わっていくかと思います。

もちろん、そんな目的をもった「いのち」を大量生産することが、この資本主義経済の中で一人勝ちしていくことにつながることも、もう間違いない。

でも僕は、本物だけに淡々と触れ続けていきたいです。

たぶん、その答え合わせは、3〜5年後ぐらいになるかと思います。

それぐらい先の未来においては、今日のこのお話の意味を理解してくれるひとが少しずつ増えていくことを願っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。