先日Voicyで配信した、自炊料理家・山口さんとの読書会の中でも少しだけ話題になりましたが、必要以上にディグらない勇気って、いまものすごく大事になってきているなあと思います。

特にAIを活用したディープリサーチのようなものが出てきたからこそ、余計にその点が大事になってきているなと思う。

AIを使って調べようと思えば、いくらでも情報は掘れてしまうし、ある程度の専門家にもいとも簡単になれてしまう。

でも、だからこそ、どこで「やめるのか」という歯止め、その自らの健やかさとのバランスのほうが、AI時代の新しい素養みたいになっている気がします。

今日はそんなお話になります。

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この点、これまでは明らかにディグったもん勝ちだったと思います。

インフルエンサーも専門家も、オタクも推し活やコレクターも、結局は自らの知的好奇心に誘われて、どこまでもディグっていって、他人よりも抜きん出て、そこで得られた知見それ自体が武器になった。

そしてそこでえられた知見や情報をとめどなく発信していれば、他者からもわかりやすく評価される時代だった。

つまり、ディグることに対して費やした”時間”がそのまま費用対効果高く投資になっていたわけですよね。

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しかし、AIが出てきてしまった今は、もうそうじゃない。

AIに聞けば誰でもわかることになってしまった以上、もうそんな各ジャンルにめちゃくちゃ詳しいということは、ほとんど価値がなくなってきた。

だとすれば、インターネットを使って知的好奇心はいくらでも満たせてしまう時代には、それ相応の付き合い方のほうを目指すほうがいいはずで。

むしろ、ディグることによって、ネットの海に溺れてしまって情報肥満体型になってしまい、困っているひとたちが増えてしまっているように僕には思います。

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このあたりは、昔の砂糖やお米なんかと一緒なんでしょうね。

それが貴重でなかなか手に入りにくいものだったから、人間はそれに惹かれるように進化をして、さらに体内にできるだけ蓄積できるような身体に変化をした。

でも今は、砂糖もお米もいくらでも安価に手に入り、食べれば食べるほどむしろ体が重くなる。それゆえに、いかに適度に抑えて、節制するかのほうが、人間の健全な肉体を保つうえでは重要な要素になってきている。

あとは、なんでも「もったいない」と言いながら物質を家の中に溜め込んでいしまう昭和世代なんかとも一緒ですよね。

いま、情報はまったくそれらと同じで、タイパ・コスパよく低コストでディグれる時代だから、ディグればディグるほど思考が鈍くなり感性が肥満化していく。

つまり、豊かさは、食から物質へ、そして情報へと移り代わり、その情報や知的好奇心さえも今は完全に飽和した。

そんな時代に生きる僕らに求められるのは、むしろ「歯止め」のほうであって、自分なりの「健やかさ」を目指すうえでの対象との適切な付き合い方なのだと思います。

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過度にディグらず、他者とも比較せず、競争の螺旋から降りて、それよりも飽きずに淡々と健やかに続けること。

対象と健全に付き合い「自足の思想」を体現するために、自分なりの適切な距離感をみつけていくほうがいい。

世間的にな評価を追い求めて、他者と競って、頂点を目指さないことが大事なわけですよね。

だから、佐々木さんもこのタイミングで、頂点を目指さない「フラット登山」を提唱されているんだろうなあと。

それよりも、ちゃんと「味わう」ことのほうがよっぽど大事。

つまり、スタンプラリー的に数字で計測できることによって何かを制覇した気を目指すよりも、自らの五感を通して味わって、承認欲求以外の方法で自らを満たせることのほうが重要だということです。

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たとえば、SNSでよく見かけるのがコンサル、コーチング、カウンセラーなどで「何百人達成しました!」みたいな宣伝。このような宣伝も、完全にこの罠にハマっているなあと思います。

あれを見て「そうか、このひとは年間に何百人、何千人も対応しているなら信頼度も高いのか!」と思われることを狙っているのかもしれないけれど、何千人の”ひとり”を大切にするわけないじゃないか。

むしろ、どれくらい丁寧に“ひとり”に向き合ったのか?どれぐらいひとりを大切に、注意深くあれたのかのほうが、ほんとうの意味で大事になってくるんだと思うのですよね。

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じゃあ、実際にそうやって、注意深く向き合うためにはどうすればいいのか。

それが、まさに「手入れ」の思想だと僕は思っています。

「愛着」は対象を慈しみ、「執着」はおのれの欲望に拘泥する。


これは哲学者・苫野一徳さんの本の中に書かれていた言葉なんですが、この言葉なんて本当にとてもわかりやすい。

つまり、ディグるというのは執着であって、それは己の欲望に拘泥する行為なわけですよね。

それが他者からみたときに変態的に見えるから、物珍しがられこともあったわけだけれども、それがいま完全にコモディティ化して終焉しようとしているわけですよね。

だとしたら、そうじゃなくて、自らの執着的欲望を「愛着」に変えていく作業こそが大切であって、そのためには対象を目一杯慈しみ、手入れをするように関わっていく、ということが大事なんだろうなあと思います。

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僕が何度も繰り返し言及してしまう「好きだから大切にするのではなく、大切にするから好きになる」というあの話なんかも、突き詰めれば「主体的に丁寧な“手入れ”を続けると、後から深い納得感と、愛着が自然とやって来る」という実感知の話なんですよね。

だからこそ、ハック的な目的志向とは完全に相容れない。

昨日のVoicyの中で配信した最所さんとの「旅」の話に関連して言えば、行く前から「アレを観に行こう!コレを食べに行こう!」と決まっているものは、検索ワードがすでにわかっているものであって。


でも本来、現地に実際に行く価値というのは、行くまでにはまったく知らなかったものに出会うことであるはず。

そのためには、現地に身を浸して、そこで自分の感覚に耳を澄ませて、検索ワードさえ知らなかったものに、積極的に自ら出会おうとすること。

そして丁寧に、そこで出会った何かに対して味わいにいくこと。

そんな体験を繰り返していくうちに、五感を通した解像度がぐっと高まり、それまでの自分(つまり、旅の前の自分)とは全く異なる自分へと変貌してしまう。

それこそが、本当の「知性の働き」だと思います。そして、この変化は決してAIには体感することができないことでもあるわけですから。

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あとは、自分が何かを提供する側にいる場合には、ちゃんと「迎えに行く」ってことも、とても大事なんだろうなと思っています。

最近、飛ぶ鳥を落とす勢いの文芸評論家・三宅香帆さんが、以前なにかの動画の中で、ご自身の文章を書くときに意識していることは、無駄なところをできるだけ削って「読んでますか、聞いてますか、今あなたに語りかけています!届いてますか!」と常に読者に呼びかけるように書いているとおっしゃっていましたが、まさにそんなイメージです。

「現代人は、世界から呼ばれたいと願っている」と仮定すれば「これはあなたのことだし、あなたに直接話かけていますよ!」と懇請して、相手に「こんな私を迎えに来てくれた」と思ってもらえるのはものすごく大事なことだよなと思うのです。

それを耳元で直接囁やけるから、音声配信もこれだけのブームになっている。

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山口さんも佐々木さんも、「わたしのやっていることは自炊じゃない、登山じゃない」と嘆いている人たちに対して、「それだって立派な自炊であり、登山ですよ」とまったく別軸のものさしを提示して励まして、迎えに行っているなといつも思います。

そして、読者の人々は、そこで勇気づけされて、顔色なんかも一気に明るくなる。

この状態が、最近僕がひたすらに言及し続けている「適切な邪道」の真意です。

本当に大事なことは、形式や従来的なルールではなく、その先にある到達点に導くことであれば、保守的な手順やルールなどは必ずしも守る必要もないわけですから。

それよりも、「これは私宛であり、いま私に対して必死に呼びかけられている」と自覚してもらえるかどうかこそが、カギになる。

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で、最後に、「はたらく」という行為の根っこにあるのは、“この世界に自分がいていい”と自分自身が納得感をもって思えることだと思うのです。

それは裏を返せば、世界に対して率先して”手入れ”をし続け、執着ではない「愛着」を自ら生み出していくことであって、それがやがて自分が呼びかけていた側から、逆に呼びかけてもらえるようになるということ。

そのときにはじめてひとは、本当の意味で”この世界にいていい”と思えるということなんでしょうね。

そのためにも丁寧に耳を澄まし、ひとつのことを味わい、対象を手入れをするようにしながら迎えにいくことで、私も呼びかけられていたことに、ハッと気づける瞬間がやってくる。

これこそが、AI時代にいちばん大事な素養になると僕は思っています。

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そして、この熱量さえも、いつかは必ず終わりを迎えるんだとも思えているから「もののあわれ」を味わえる。言い換えれば、この関係性もいつか終わりが訪れるからこその一期一会を大切にして向き合える。

このような循環をこれからも大切にしていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。