先日Voicyの中で配信した自炊料理家・山口さんとともに行った佐々木俊尚さんの新刊『フラット登山』の読書会。
この中で山口さんが「味わう」ことについて、とても興味深い意見を聞かせてくれました。
ぜひ実際の配信を聴いていただきたいのですが、僕なりにあの配信の内容を要約すれば、山口さんも佐々木さんも、「味わうこと」を何かの目的に当てはめるのではなく、あふれ出るものを静かに待つ、そんな姿勢を大切にしているという点において、両者ともに共通していたように思います。
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で、このスタンスは、現代の多くのクリエイティブやコンテンツ制作の矢印とは、真逆の方向性だなと感じるんですよね。
あらかじめ設定された“目的”に合わせて“何か”を作るのではなく、自分の内側から自然に立ち上がってくるものを待つ。自分のコップからあふれ出てくる水のようなものを、受けとめる感覚。
そういえば村上春樹さんも「依頼で物書きの仕事をしない」や「連載は持たずに、自分が書きたいときに小説を書く」と各書で書かれていましたが、これも“味わう”という姿勢そのものだったのかもしれません。
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じゃあ、山口さんにとっての「味わう」とは、具体的には一体どんな行為なのか。
山口さんが語る「味わう」とは、自らが五感で感じたことを自分なりに咀嚼し、他者にも伝わるような形で伝えること。それこそ養老さんの語る「情報化」するプロセスそのものでした。
料理の楽しみは、手順や効率ではなく、体が自然に動く感覚であり、つまり「なぜ今この手順を選んだのか」が言葉で説明できなくても、身体が先に理解している状態にあるとおっしゃっていて、それが非常に印象的でした。
「すべての営みには“味わい”がある。その味わい方を知ることができたら、人生のあらゆる瞬間がもっとおもしろくなるはず!」と楽しそうに語る姿勢は、本当になんだかとっても山口さんらしい話だったなあと思います。
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あと、山口さんのお話でさらにおもしろかったのは、さまざまなルールや制約がある中での、自分の「ビート」や「リズム」を大事にしているというお話。
山口さんは料理を「音楽」にたとえて、自分なりのリズムやビート(感覚やテンポ)をとても大切にしていると語ってくれていました。
この“ビート”は人それぞれ異なるため同じ食材を同じように渡しても10人いれば10通りの料理が生まれてくる。
制約の中で、一定のルール(たとえば「生米は食べられない」「肉に火は通す」など)を守りつつ、その枠の中で自分のビートで自由に遊ぶことを大切にされているんだ、と。
だからこそ、山口さんにとって料理とは「味わい」と「リズム」の掛け算であり、その中での“偶然の出会い”が唯一無二のものと、なっているということなのでしょうね。
逆に言うと、何か目的を持って当てはめていく感覚になると、どうしても「情報処理」的になってしまい、人やAIと被るということでもあるのだろうなあと。
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で、この「味わう」というのは、タイパやコスパの対局にあるような思想だなあと思いました。
何事も効率良くを目指して、タイパやコスパを重視すると、むしろ人はドンドンと「味わう」という行為からは遠ざかっていく。
これは文字通り、ごはんを食べるときなんかを考えればわかりやすい。
効率よく食品を接種してばかりいると、味わう機会は減っていく。
結果として、味の側が自分を迎えに来てくれることを待ち続ける受け身の姿勢にもなるから、そんな怠惰な自分でも叩き起こしてくれるもの、つまり味が濃いものや激辛、デカ盛りなど、そういうインパクトが強いものが食事のメインになっていく。
食事側から、自分に対して味覚を刺激してくれるようになることを待ち続けるわけだから。自ら能動的に味を探しに行くような「味わう」行為からは、なおさら遠ざかっていく。
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そうなると、もちろん自分の舌もバカになり、余計に刺激の強いものを求めるという悪循環に陥っていく。
しかし、僕らが本来するべきは、食に意識を集中させて、些細な感覚でも、それを目一杯味わうことなんだろうなと思います。
そこに自らの五感を通して身体感覚の解像度を高くしながら、それを他者にも伝わるように「情報化」をすること。
それゆえの現代では「孤独のグルメ」みたいな番組も流行ったりするわけですよね。
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じゃあ、なぜ人々はこれまでそうしてこなかったのか?
この点、つい数年前までは、効率よく・生産性高くのほうが、圧倒的に価値があったからだと思います。
それこそが賢い人、優れた人の代名詞みたいなところがあった。
そうやって、できる限り少ない労力によって、最大の効果を出せることが「世渡り上手」とされていた。
でも、ここ数年でAIが出てきてしまった今、今はもうそんな「情報処理」がすべてAIのお仕事になってしまった。
コスパやタイパにおいて、人間は決してAIには勝てない。枠を与えて目的性を持たせて、情報処理をさせらたら、AIの右に出るものはもう存在しない。
だとすれば、本当に人間に大事なことは、むしろ、この「味わう」という行為のほうなのだと思います。
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以前書いたブログで「お手玉のように、くるくるといろいろなことに手を出している多動的なひとよりも、ひとつのことを丁寧に抱きしめることのできるひとのほうがこれからは強い」という話を書いたけれど、その内容にも見事につながるなあと思います。
それは、ひとつのことに固執して、何もトライアンドエラー試さないということではない。
様々なことを試しながら、自分にとっていちばんしっくりくる味わい方を探しているという状態が、一番尊いんだと思います。
少なくとも僕はそんなふうに味わっているひと、自分なりの味わい方をちゃんと知っているひととともに一緒にいたいし、ともに時間を過ごしたいと思うから、お仕事も一緒にしたいなと思う。
逆に、なんだかいつも、セカセカしたひとと一緒に美味しいごはんを食べたいとは思わない。そんなことにも、とてもよく似ている。
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じゃあ、この話を受けて、自分にとってそんな「味わう」とは何なのか、ここ数日の間ずっと考えていました。
最初は、本やオーディオブックを味わうことかなと思いつつも、僕はその先にいる「人」に対して常に興味を持ち、味わうことが好きなんだろうなあと思います。
ちょっとメタ的な視点になるけれど、山口さんに話を聞かせてもらった時のように、他者が何かを目一杯「味わっている」話を聞かせてもらうこと自体が、本当に大好き。
インタビューや対話会などが好きな理由も、きっとここにあります。
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どんな立場にいるひとであっても、相手の話を深く丁寧に聞かせてもらうことで、その中にある「潜在的な可能性」に触れた、と感じられる瞬間が、本当に愛おしい。
何か出来合いのストックフレーズで語られる話なんかよりも、もっと、奥にある何か、そのひと本人さえも気づいていないような可能性に、いつも触れたいなと思う。
目の前の相手だけではなく、相手を超えた連綿とした何かに意識を向けるような感覚もあります。きっとそれは継がれている系譜や、本人の無意識のなかにある歴史や文化ともつながる話だと思うんです。
これっていうのは、味の向こう側を探しに行くような感覚に非常に近いなと思います。
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個人だけでみたら一見するとつまらなくても、その奥には誰もが平等に継がれてきた(継がれてきてしまった)何かがある。
だから、自分にはコミュニティ運営がとてもあっているんだろうなあということも、今回よくよくよく理解できました。
だからこそ、僕にとってのコミュニティ運営とは、ただ場を整えることではなく、ひとりひとりの中に眠る深い可能性、そんな本人自身も気づいていない何かにそっと触れ、それを静かに味わうための営みなのだと、今あらためて強く実感しています。
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効率良く求め合う関係性は、オープンな社会において、もうたくさんすでに存在している。
この場はそうじゃなくて、「ゆっくりでもいいし、拙くても構わないから、いま自分自身が何を味わっているのかを聞かせて」とお互いに言い合って、その上で「丁寧に聞いてもらったから、私にもあなたの話を聞かせて」と自然と連鎖していくような状態を構築したい。
そうやって、「味わう」の本質観取をするような感覚で、循環しているコミュニティを目指していきたいなあと思います。
それが、自分のなかにある「豊かさ」を発見することにもつながり、他者に対して過度に何かを追い求めずに、自分で自分のことを満たすことにもつながっていくのだろうなと感じています。まさに「自足の思想」へともつながっていく。
いつもブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/05/14 20:20