先日、「新・山本二三展」に行ってきました。


これが本当に素晴らしいかったです。今このタイミングで観に行くことができて本当に良かった。

今日は、この展覧会に行ってみて感じたこと、自分が考えたことをこのブログにも少し書き残してみたいなあと思います。

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まずは、山本二三さんを知らない方に、簡単に説明すると、山本二三さんは1953年生まれ、日本のアニメーション界を代表する美術監督・背景画家の一人。

スタジオジブリの映画など多数のアニメーションに携わり、独特の詩情あふれる背景世界を生みだしてきました。

代表作に『天空の城ラピュタ』や『じゃりン子チエ』、『火垂るの墓』や『時をかける少女』『天気の子』、『もののけ姫』などなど。

ここにはすべてを書ききれないぐらい、本当に僕らが強く印象に残っているありとあらゆるアニメ作品の背景を担当し、それを実際に自ら描かれてきた方です。

そして、山本二三さんが描く印象的な雲は「二三雲」という愛称でも親しまれているそうです。

ぜひ、Googleの画像検索などで、その作品を観てみてください。必ず懐かしさのようなものを感じていただけるかと思います。


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僕はこの展覧会に行ってみて、日本人が無意識に探している景色を、ことごとく絵によって再現してきた方だったんだなあと思わされました。

少なくとも、僕が日本全国を歩き回るなかで、大自然の中に無意識に探していた景色というのは、まさにコレだった。

でも、この話はニワトリとたまごのような話でもあり、一体どちらが先なのかといえばなかなかにむずかしい問題。

言い換えると、自分の中に無意識のうちに育まれた感性、その元ネタに触れたような気分になりました。僕らは、ありとあらゆるアニメ作品を通じて、サブリミナル効果のように「これが美しい」と感じるように埋め込まれてきたのではないのかなあと。

それが展覧会の中で、背景だけに注目してみることでハッキリと理解することができたように感じました。

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じゃあ、この探している「何か」の感覚っていうのは一体何なのか。

それはきっと、自分の中に存在している「神概念」のようなもの。しかも一神教的な神概念ではなく、もっと汎神論のような感覚に近いです。

まさにこの山本二三さんが描く自然描写そのものが、「ソレ」だったんだろうなあと。たとえば、『もののけ姫』の中に出てくる「シシ神の森」なかはとてもわかりやすいかと思います。

あの映画の中には、異例の20秒間ずっとシシ神の森の背景だけが映し出されるというシーンがあります。たぶん、そのシーンは強く覚えている方も多いかと思います。

僕らは、あのシーンに、ものすごくこう神々しいと感じられる「何か」を観たはずなんですよね。リアルよりも、さらにリアルに感じる何かを感じ取っていた。

だからこそ、うまく言えないのですが、この展覧会は僕にとってはなんだか自分にとっての「宗教画」を観に行ったような印象を強く感じました。

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さて、展覧会の最後には、山本二三さんのデモンストレーションの動画が流れていて、その動画の中で山本二三さんは、「何かをやったということじゃなくて、やり続けることが大事だ」と語られていた。

こちらがその動画になります。


この言葉に僕は、ものすごくハッとさせられてしまいました。

なぜなら、「世界観」ってきっとそうやってつくるものなんだろうなあと思わされたからです。

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僕は常々、まわりの人々が引き立つ「世界観」をつくりたいと思っている。

自分が、中心になって、自分のことを推して欲しいなんて本当に一ミリも思っていなくて、やりたいことは、そこに関わってくれるひとたちが、本当の意味で自分らしく活躍できる場や空間をつくりたいのですよね。

言い換えると、自らが主人公になるとか、自らがその主人公を描くとかではなく、他者や他者が描いた主人公が活躍する「背景」や「世界観」を描きたい。

そして、日本人はどちらかと言えば、こちらを追い求めていたひとが多かったのではないかとも思うのです。

たまたま現代は、インフルエンサー活動や推し活のようなものが一般的になり「推す・推される」という関係性が固定化し、なんだかそれがあるべき姿のように尊ばれているだけなんじゃないのかなあと。

この点、推し活には必ず「ゴール」のようなものが必要です。ファン活動を円滑に行うためには「何かをやった」と目指せるゴールが絶対に必要になってくる。マンガ『ワンピース』で言えば、「海賊王」や「ワンピース」という秘宝にたどり着く事自体が、ゴールとして設定されている。

そのような成果も素晴らしいとは思いつつ、そのひとつのゴールを目指すのはなんだか今は、ちょっと違うような気がしているんですよね。

もっと平坦なところに宿る神のようなものがあると、僕は信じているのです。うまくいえないのですが、そちらのほうがなぜか「本物」だと思ってしまっている。

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この点、ゴールや頂上に到達しようとすると、どうしても作為的になってしまう気がしています。

特に、今の世の中は、そのような頂上を目指す行為が過度に尊ばれすぎている節がある。

昨日、いま話題の映画『怪物』を観に行ったときも、似たような違和感を強く感じました。この映画は明らかに賞や興行的な成功を目論んでつくられたものだと、僕は作品から感じ取りました。

つまり、逆算して作品がつくられてしまっている。そして、実際にそれが見事にバチッとハマっているように感じました。つまり大成功しているわけです。

でも、賞というのは本来、結果として取れちゃうものであって、自分から狙って取りに行くものではないよなあとも思っています。

たとえば、人間国宝になるひとなんかも、初めから人生の目標が「人間国宝になること」っていうふうに考えながら生きてきたひとはたぶんいないと思うのですよね。

そのような違和感を見事に言い表してくれる言葉が、この山本二三さんの「何かをやったということじゃなくて、やり続けることが大事だ」という言葉だなと。

そして、そのために「背景」を描き続けて「世界観」を作り続けているということが、あまりにも今の自分にはズドンときた。「本当にそうだよね!」って。

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ひとは、常に「何かをやった」いうことを残したくて、頂上を目指すような形で目の前の仕事に取り組んでしまう。

繰り返しますが、それは決して間違っていることではないと思いますし、それはそれで本当に尊い行為です。その勝ち負けの論理で、 世の中のビジネスは回っているのは紛れもない事実です。

でも、もう一つ高次の在り方というのも、一方で存在していると僕は信じている。

そのことに気づいてしまった人間には、きっとその責務があるとも思っています。つまりは、そこに宿る神や狂気のようなものを自己をひたすらに深掘りをして探していく必要があるのではないかなと。

続いていく中にだけ存在しているものに一貫している、微細な神の気配。最後には、本当に手を合わせて拝みたくなる何かがそこに顕現してくるはずなのです。山本二三さんが描いた「背景」の数々のイラストが、まさにそうだったように、です。

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ここまで読んだ方の中には「くだらない、そんなものはただのルサンチマンで、弱者の論理だ!」と言われてしまうかもしれないですし、実際にそのとおりだと思います。

でも、毎日続けることは才能さえも凌駕すると僕は割りと本気で思っています。それは、もうずっと変わらずに10年以上前から思い続けていること。

もちろん、才能を持っているひとが、毎日ひたすらに続けているのが一番強いのは間違いない。でも、だからといって才能がない人間が、そこで諦めるのも違うと感じます。

ソレとしか言いようがない何かは、やりきった先ではなくて毎日淡々と続ける中でふと稀に訪れて一瞬だけに宿ってくれるものだと思います。そしてまたすぐに去っていくもの。

だから、またソレに出会いたくて淡々と続けるほかないのだろうなあって。

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僕は風景のような世界観をこれからもつくりつづけたい。

主役はどこまでいっても目の前の相手であり、つまり「あなた」だと思っています。

そうやって「あなた」自身を推すために、自分自身は一体何ができるかを毎日淡々と考え続けて実行している。

もちろん、それはまだこの世界に生まれてきてさえいない「あなた」だって含まれているし、過去の死者たちという「あなた」だって含まれている。

背景を作り出し世界観を作り出すこと。

そして毎日、その場を掃き清めること。

現代においては、コミュニティをつくるうえでは、本当にとっても大事なことだと思うし、だからこれからも毎日、なるべくブレずに続けていたいなあと願ってやまないのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。