前回まで「聴く」を中心に書いてきたので、今回は「話す」、ということについて書きたいと思います。
ちょっと長い前置き
これを書いているのは夜中の12時半。
いつもの私ならとうに寝ている時間なのですが。(11時くらいに寝ないとしんどくなります。中高生の時ですらこれで、修学旅行も手にトランプを持ったまま寝てしまい翌朝とてつもなくがっかりしていたものです)
という訳でいつも以上に感覚的な文章になりそうな予感大ですがお付き合いいただけると嬉しいです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが「話す」、ということ。
ここでは私のコーチという属性上コーチング等のセッション内での「話す」について考えたいと思います。
コーチングを疑ったことのある私
まず。意外なことを。
私、コーチングセッションを信用できなかった時期があります。
というか、あまり効果を感じられなかった。(受けていた側の時の話)
それはいくつか原因が考えられるのですが、
①コーチングというコミュニケーションを理解せず受けてしまった
(当時はコーチが分かりやすい道を示して勝手にいざなってくれるものだと思い込んでいました)
②なんでこんな事やあんな事、急にオープンに話さなきゃいけないのよ、いや、希望したのは私なんだけどさ。でもやっぱり恥ずかしくて言えないよ。でもそこ話さないといけないのも分かってるんだけどさ。でもズカズカ入り込んでこないで!と思った。
③なんか、とって付けたような「応援してます!」とか嘘くさぁ~・・・
ここら辺なのかな、と。
大きさで言えば①>②>③(要は①が一番大きい)。
言わば話をさせられている感、閉じた「話す」の感覚です。
これをコーチのスキルという観点で解剖すると色々こうかな、あぁかな、という考察は出てきてしまうのですがいったんそれは置いておいて。
要はあまり知らない人に、突然身ぐるみはがされてしまう恐怖と違和感だったのだな、と思います。
考えてみれば当たり前のことですよね。初対面の人にいきなり丸裸なんて見せられやしません。
ましてやそれなりに問題を感じている部分の話なんて。
それでも話してしまうことがある
それでも話してしまうことがある。それはしばらく様子を見て、この人ならば安心できるのかなと思えた瞬間かもしれません。
何かのきっかけで少しの勇気が持てた時なのかもしれません。
それとも少し緊張が解けた時かも。
そんなやり取りの中で話をしながら、反射板のようにコーチからの質問が自分に返ってくる。
そしてその仕組みを自分が理解し始めた時。
ここをもっとこんな風に話してみたい。そうすると自分は何て返してくるのかな。そんな風に自分が自分に問いかけている感覚になっていくんです。
そうして積み重ねていくと、セッション外でも自分が自分と心地よく対話する時間が少しずつできていく。
その仕組みづくりがコーチングの良いところだなと感じています。
ちょっと時間はかかるかもしれない。勇気もすごく要る。でも結局本音(はだか)のコミュニケーションって、そんな感じなんだろうなと。
コーチにも勇気が必要
だから、そんな勇気のあるお話を聴くコーチも、「聴く」勇気が必要だと思います。逆にそんな人にセッションをしてもらえた時、自分が開かれていく感覚を覚えます。
聴く勇気とは、相手の出方などによってひるむことなく自分を変えない勇気です。そしてそれを自ら提示できる勇気だと考えています。
それがきっと聴き手にとっての丸裸。
勇気をもって未知の世界を探索しようとしてくれている「話し手」の方に、最低限の礼儀だとも思います。
開かれた「話す」には必ず何かがある
そうやって開かれた「話す」という行為には必ず何かが生まれるはずです。
それは、「話さない」ことを決めたと相手に「話す」ということも含めます。言葉だけでなく、態度や行動で「話す」ということもあるかもしれません。(これは聴き手に解釈を委ねる割合が大きくなってしまいますが)
じゃあ結論は
とは言えいきなり裸のお付き合いを強要はやっぱりできません。理想はそういった開かれた「話す」をできる何かがあること。人によってはコーチかもしれないし、親友やパートナーとの会話かもしれないし、はたまた絵を描くなどの他の何かかもしれない。でも、自分の開かれた「話す」を何か形にして振り返るものができた時、初めて少し自分を俯瞰して考えることができるのではないかな、と思うのです。そんな「お話」には、これから先を進んでいくためのたくさんのヒントがきっと詰まっている。だから安心して話せる何かを、誰しもが持ってくれるといいな、と願っています。もし、それが仮にコーチングだったとしたら。話す勇気を持ってくださって、心からありがとうの気持ちを添えて臨みたいなと思うのです。
さて、良い感じに疲れて眠たくなってきました。おやすみなさい。