ほぼ毎日、料理をするようになった。
作り置きをしておくというより、その日の気分に合わせて作る感じだ。だから、おそらく効率も良くないし、決してレパートリーも多いわけではない。
だけど、この料理を縁取る過程には、多くの発見があっておもしろい。よく観察をしてみると、仕上がった料理がよりおいしく思えたりする。
料理をおもしろいと思えたのは、人生で初めてかもしれない。いや、おそらくは、生まれて初めて料理をした、中学生のときには、確かにおもしろかったのだと思う。
自分の好きなように、食べたいものを食べられる。作れずに挫折した料理は多いけど、自分にとっての料理は、自由の象徴であるように感じた。
ただ、いつからか、料理は効率よく腹を満たすために、食費を抑えるために、面倒でつまらない行為になった。お金が入れば外食して、節約するときは険しい顔で半額の惣菜を狙うことに固執した。重い腰を上げて作った料理がおいしくないと、ときには腹が立った。
誰かと暮らしたときは、確かに料理を作ることが楽しかった。ただ、それは「ご飯を共に食べる」という行為が楽しかったのであって、料理自体が楽しいわけではなかった。
そうして、一人で食べる暮らしになると、料理が楽しくなくなった。「自分のために料理なんて頑張れんわ」と思っていた。
とはいえ、料理に楽しみを感じる必要もないとも思う。料理には「しないといけない」「できなければならない」のような重みが、複雑に絡み合っていたりするからだ。
料理というのは、環境による要因が大きいんじゃないかと思う。今、自分が料理を作っているのは、間違いなく、スペインで暮らしているという環境による。
スペインのスーパーには、日本と比べると惣菜が圧倒的に少ない。あっても、高い上にそんなにおいしくない。外食はとってもおいしいが、これまた高い(円安が憎い)。
そういう事情があるから、自分で料理をすることが増えていった。料理をすれば、おいしく、安く、色んなものを食べられる。
ある意味で、"仕方なし"に料理をしてみると、なんだか穏やかな気持ちになることが増えた。きっと、大変だった部屋探しが終わって、久しぶりに家があるという状態に、嬉しくなったことも重なったからだと思う。
窓を少し開けて、外の音を入れながら、食材を切り、炒めて、隣の鍋でスープを煮ていると、今日の自分が何を感じていたのか、今何を考えているのか、自身を見つめる時間になっている気がした。
スペインに来て、人には色々なルーツがあるんだなぁと思っていたが、食材もそうであることに改めて気付いた。
辛いから苦手だったチョリソーはスペイン発祥で、元々は唐辛子が入っておらず、全く辛くないと知った。それからは常備するようになった。たまに辛いやつもあるけど。
にんにくを初めて切った。日本にいるときは、切るのが面倒で、チューブにんにくを使っていた。皮の剥き方も、中身の構造も、切り方も、今までたくさん食べてきたのに、何も知らなかった。最初は切り方がわからなくて、適当に切っていた。何回か色々な切り方をしてみると、よく見るにんにくの輪の形に切れて、すごく嬉しくなった。
パプリカって、こんなにかわいい形で収穫されるんだと知った。色によって味も違う。黄色は少し酸味があって、塩気の多いスペイン料理にちょうどよいアクセントを加えてくれる。赤色は単純に甘くておいしい。色んな料理に忍ばせてみると、ちゃんと合うもの、合わないものがある。人間はこうやって、おいしい料理を開発してきたのかもしれない。こういった積み重ねは、人類学みたいだと思った。
スペインでは、シンプルな料理が多い気がする。塩!にんにく!オリーブオイル!みたいな味付けが多いので、食材を使い回しやすい。
だからなのか、"ずらし"という感覚を料理に対して感じるようになった。計画して献立を考えなくとも、今ある食材を組み合わせて、なんとなく作る感じ。
たとえば、いつもと同じ料理を作っても、少し食材を変えてみる。味付けが似ている料理同士を組み合わせて、今ある材料で作れる料理にアレンジするとか。
これが「あるもので作る」ということなんだろうけど、ずっとできなかった。別にレシピを忠実に再現して作っているわけではなかったけど、応用の仕方がわからなかった。作りたい料理を調べて、作るのはいいけど、余った食材を持て余すことが多かった。
おそらく、「型」に囚われていて、残った食材で作れる、"効率の良いレシピ"を求め続けていたのかもしれない。でも、ただ、ずらす。なんとなく。そういう状態から発見があり、感覚知が積み重なってくる。
だからこそ、この感覚はとてもおもしろいものになる。料理のことは、何もわからない。だけども、感覚として確かに存在しているなぁと思う。
何かを始めるのは、思いがけないことだったり、なんとなくであったりするのに、どうして「型」を守ることばかりに目がいってしまうのだろう。
思ったのは、「守・破・離」というのは、実は「離・守・破」という順番であったりするのではないかと思った。何でもない些細なきっかけで、わけもわからないままに作ってみる。続けていくうちに、手掛かりとなるような型に出会う。その形に納得する。そして、その型から分散して、ずらしていくことを覚える。
基本の型ばかり見ていると、型を守ることだけに注力してしまう。守破離の詳細はわからないけど、型って後回しでもいいような気がする。
ずっと「プロフェッショナル」という言葉が嫌いだった。プロという言葉によって守られるものは、プライドぐらいなんじゃないか。
効率のよい型にそぐわないものは意味がない、となってしまうならば、どうして新しいことを始められるのだろう。
自身が掲げてきたものの重さを、誰かに判断してもらう言葉に変換しなくてもいいのではないかと思う。分散していたものを集めて、固めて、ずらしていくことは、繰り返しになったりするが、それもそれで悪くないんだろう。
少し前から、俳句を始めた。始めたというか、生み出したこの言葉の羅列が、一体何と呼ぶのかわからなかったけど、短くて俳句っぽいなと思ったから、俳句だ。
たまたま俳句に関する本を読み、やってみたいなぁと思った。だけど、季語や五七五という型を知ると、めんどくさいと思い、手を出さす前に諦めてしまった。
ただ、ずっと短い雑記を書いていた。それらは時折、俳句や短歌に近しい文字数になることもあった。そこで、俳句や短歌だとして、生まれた文字をまとめるようにしてみた。
しばらくは、相変わらず、俳句でも短歌でもあるような言葉だったが、あるとき、窮屈だと思っていた、"俳句の言葉の短さ"に対して、とても美しいと感じた。淡々と言葉を羅列していく中に、秘められたさらに奥の言葉がある。それは自分が書いてきたものと近しいかもしれないと思った。
そうして、俳句の方に興味が向くようになった。散々嫌だと思っていた、堅苦しい五七五が、俳句を詠むために欠かせないとっかかりとなった。最近は季語も入れたりしてみるのも楽しい。
既に自分が放っていた、バラバラしたものをかき集めてみたら、俳句という型に出会った感じがある。今のところ、大事な人にだけ共有している。これが何になるのかわからない。でもなんかおもしろくて、俳句って本来そういう遊びなのかもしれないと思ったりした。
余裕がないという状態について、最近はよく考える。余白、荷物、スペース。余裕がなくなると、料理もできなくなるのだろうか。
俳句を詠むときは、「はっ、今詠めそう」みたいに、過ぎ去ってしまう何かを掴もうと自覚できる、余裕がないと生み出せない。自身と今起こっている現象が剥がれていないと、今のところ「俳句を詠む」という行為に至らない。
料理も、俳句を詠むように、「生きるために仕方ない行為」という部分から剥がしてみると、自身の気持ちにも、食材の発見にも、気付けるようになるのかもしれないと思った。
恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。
「好きなスペインの食べ物は?」と聞かれたら、圧倒的に「生ハム」なのだけど、プリングルスの生ハム味(生ハム味じゃない)とパプリカ味が癖になってしまって、ついつい買ってしまう。昔食べた、ケチャップ味もおいしかったと思うけど、全然見かけなくて恋しい。