必死に「普通」であろうとすることによって悩みが生じてしまっているひとに対して、何か普通じゃない提案をしてみると、
「鳥井は普通じゃないから。特殊だから、それができるんだ」というふうに本当によく言われます。
そんなふうに言われること自体は、15歳でひとり地元を離れるという決意をしたタイミングから、無限回、周囲の人々に繰り返し言われてきたことなので、もう完全に慣れ切ってしまっていて、そのように線引され隔てられることは、今更なんとも思っていません。
まただ、というふうに思うだけ。
ただ、そうやって「俺とおまえは違う」とか「おまえも『普通』をやってみれば、俺の辛さや苦労がわかる」とかを僕に言ってきて「あなたには一体どんなメリットがあるの?」って、それを聞きながら毎回思ってしまいます。
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言い換えると、普通であることによって、苦労していて、悩んでいる状態に陥っているあなたにとって、それを主張することは、何の意味もなくない?と思ってしまう。
むしろ、そうやって隔てて、今の置かれている状況に固執しようとすればするほど、自らの状況は改善しないどころか、悪化の一途をたどるだけだと思います。
そして、そうやって改善案を提案してくれている他者さえも「普通」に引きずり込もうとしてくるひとは、目の前の相手からもドンドン距離を置かれるでしょうし、マジで一体何がしたいのかわからないなあと、いつも不思議に思ってしまいます。
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僕からすると、それは喩えるなら「おまえも毎朝、満員電車に乗れば、サラリーマンのこの辛さがわかる!」と言われているようなもので。
でも、僕はその習慣が辛いとわかっているから、どれだけそれが世の中的に「普通」だったとしても、満員電車には乗らないという選択をしている。
それは、たまたま乗らない生活ができているわけではなくて、乗らなくてもいい方法を、常日頃から必死に考え続けて、それを淡々と実行している感じなんです。たとえ周囲から異常だと言われたとしても、です
投資の格言にもあるように「人の行く 裏に道あり 花の山」のイメージなんですよね。
にも関わらず、多くのひとは、まず世の中の「普通」であることのほうに強く引っ張られて、そこに固執してしまう。
自分にストレスがかかっていること、その課題解決自体は、完全に二の次になってしまっている印象を受けます。
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つまり、そういうひとは、事態を改善したいわけじゃないんですよね。
じゃあ、一体何がしたいのかといえば、『嫌われる勇気』に出てくる話そのままなんだなろうなあと。
具体的には、「悪いあの人(この場合はリモートワークを推奨してくれない会社)」と「可哀想な私(健気に毎日満員電車に耐えている自分)」をことさらに強調したいだけだったりする。
そして、その現状の「普通」状態に対して、毎日必死で対峙している頑張っている自分を、なんとか必死で肯定したいだけなのだろうなあと思ってしまいます。
決して、何か根本的な課題の解決や改善に向かって動こうとしたいと願っているわけじゃない。
つまり、あの話の中に出てくる三角柱の第三の選択肢である「これからどうするか」には全く目を向けていない印象です。
でもそれも当然であって、これは言葉にすると変な話に聞こえるかもしれないですが、どれだけストレスが掛かるような状態であったとしても、現状維持のほうが人間にとっては圧倒的に楽ですからね。
僕はこのような、言葉とは裏腹な動機に気がつくまで、本当にたくさんの時間がかかってしまいました。
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この点に関連して、最近よく思うのは、世の中には「普通」こそがニュートラルだと思っている人が、本当に多いなあということです。
普通という言葉に対して、無意識のうちにゼロ地点であると思いこんでいる。迷ったときに立ち返るべき点が「普通」だというような思い込みを強く持ってしまっている。
きっと、普通というものが何か「無色透明」のように感じているのでしょうね。
でも、冷静に考えてそんなわけがないんですよ。
むしろ、僕からすると「普通」というのは、かなり偏った色がついたものである可能性が高い。
それは、歴史を見てみても明らかです。小児愛が当たり前だった時代もあれば、今のジャニーズ問題のように圧倒的に叩かれる世の中でもあるわけですから。
どちらも、当時の世の中の「普通」です。でも時代によって、その選び取るべき選択肢は、180度変わってくる。
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だからこそ、いくら普通から逸脱したとしても、自分が今ぶつかってしまっている目の前の課題、その解決に対して忠実であれ、と僕は思います。
僕はいつだって、自分の課題意識に対して、真っ直ぐに向き合いたい。
もちろん、世の中の普通がどのようなものであるのかは地雷を踏んでしまわないようにしっかりとリサーチは欠かさないですが、自分が選び取るものが普通であるかどうかなんて、自らの決断においては一切関係ない要素です。
だからこそ、普通である状況に悩んでいるひとに対しても、僕が見えている景色やその実体験の中から、普通から逸脱した提案をしてみるわけだけれども、そうすると冒頭で書いたように「おまえは、普通じゃないから」と隔てられてしまう。
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相手がそうやって現状維持で、今の仕事や生活を変えたくない気持ちは痛いほどわかるし、その相手の選択によって、僕の人生には一切何の影響もないから「それは本当に大変ですね…」と言いながら笑顔で話を終えて、徐々に相手と距離を取る方向へと歩みを進めてみるわけだけれど、
そういうひとほど、黙って聞き続けてくれるのがカウンセラーやご自愛系のコンテンツ、もしくは占い師なんかに「そのままで良いんだよ、普通である辛さに耐えていて本当にえらいね、頑張っているね」と聞いてもらって、悦に浸る方向へと自然と流れていく。
確かに。そうやって、聞いてもらっているうちは気持ちが良いのかもしれないけれど、現実に戻ったら、また元の木阿弥です。
だからこそ、またすぐにその他者肯定を求めてしまい、より高次の救いを求めて次第に新興宗教やスピリチュアル方面にまっしぐらになっていく。
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ちなみに、これは先日サロン内にも書きましたが、僕は自らが圧倒的な凡人だという認識があるからこそ、普通から外れて極端なこと先にしちゃったほうがいいと思う派なんですよね。
ここもよく勘違いされがちなポイントです。
当然、これは先日も書いた「変装」の話にもつながっています。
下手に身の丈にあったことで「少しだけ変化させてみよう!」みたいなことをすることが
、凡人の自分には、逆に一番実りが少ない可能性が高いことをこれまでの経験で知っている。
だから「コスプレするなら全身で」みたいなところあると思っていて、そうじゃないと周囲へのシグナリング効果以上に、自分自身がその効果効能みたいなものをハッキリと認識できなくなってしまう。
「鳥井さんは、やっちゃえるから」っていうのは、やっちゃえるというよりも、ちょっと身の丈程度に変えてみても絶対にうまくいかない、何の効果効能も得られない残念な人間であるという自覚が自らにあるからこそ、ちゃんと両足突っ込んでいるところあったりするわけです。
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ただし、ここからは完全に蛇足なんですが、今日語ってきたような問い自体がまったく共有できていないなあと、思うときも正直あります。
そしてこの「問いを共有できないとき」が、もしかしたら結論が共有できないこと以上に、もどかしい時なのかもしれないなと。
問いから生まれた結論を共有しようとしてみても仕方なくて、そこで「共有できた」と思っても、それは幻想でしかなくて。それはクワス算の話とまったく一緒です。
ただ、最近は、なによりも「問いは、論理的に説明すれば、共有できる」と信じてしまっていること自体が罠であり、そんな落とし穴が自分の中にはあったなあと思っています。
結論はバラバラであっても、問いは必ず共有できるんだと。
でも、問いこそが一番共有できないものであって、問いのほうこそが、それぞれの欲望相関性の原理に基づいているような気がしてならない。
その結果として、結論がより一層バラバラになっているのが、まさに今の世の中そのものなのではないでしょうか。
特に「普通」であろうとしたい人たちにとっては、問いの共有がまったくできない。問いの共有以前の「普通」の思い込みが強すぎるから。
ここがいつも、なかなかにむずかしい問題だなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2023/11/22 18:23