昨夜、Wasei Salonの中でほしまどさん主催の「人ごとと自分ごとの間について味わってみる」という対話会が開催されました。

その中で「他人ごとから、自分ごとのスイッチが入るときは?」という問いがあり、この質問がすごくおもしろかった。

僕は、「惻隠の情が発動したとき」だと思いました。

これは、よくある話として、橋の上から落ちた子どもを自分の利害は関係なく助けるような、ついつい手を差し伸べたくなってしまうような状態。

相手の身に寄り添って、深く心を痛めるような状態、それが惻隠の情です。

じゃあ、惻隠の情というのは、人間の中でいついかなるときに発動するのかといえば、それはたぶん、相手の不遇な境遇の中に、「自分」を見たときなのだと思います。

もっと抽象的に言えば、相手という鏡の中に「私」自身が写っていたとき。

それは「過去の自分」なんかもそうですし、もっともっと抽象的な自他不二の感覚の中から生まれてくる超越的な「自己」もそうだと思います。

後者に関しては、よく養老孟司さんがおっしゃっている、田んぼの稲を見て「あれはおまえだろう」という話にも、非常によく似た話です。

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で、この惻隠の情が発動される範囲やタイミングというのは、本当に「人それぞれ」だと思います。

この点、以前「オーディオブックカフェ」の中でもご紹介したことのある『共感という病』という書籍の中で、内田樹さんと著者の永井さんの対談が掲載されていて、そこでも惻隠の情の話が語られていました。

その時の話の中で、利害関係一切関係なく惻隠の情で手を差し伸べたくなってしまうような衝動に突き動かされて、地球の裏側まで行って社会活動をするひとがいると語られていた、

更に、そこから時間的な範囲も広げて、未来永劫の生きとし生けるものすべてに対して、惻隠の情を抱く人たちもいる。

一方で、利己的で、近視眼的な人たちは道端で困っている人さえ助けない。ここは、善きサマリア人のたとえの話にも繋がってくるかもしれないですね。


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で、当然ですが、本来は自分の内面から立ちあらわれてくる惻隠の情というのは、ひとそれぞれ、まったくバラバラであっていいはずなのです。

でも、これも一方で当然の理ではあるのですが、そうやって道端に倒れているひとさえ助けない近視眼的なひとたちばかりだと、世の中はまわっていかない。

だから賢者は学ぶし、その学んだ賢者たちは祈りを込めるように、その学んで得られたことを次世代に対して教育してきた。

それは、次の世代は、なんとか争わずに平和で生きてくれますようにという願いを込めて、そんな贈与として、教育を次世代に無償で施してきたわけですよね。

それがいわゆる、修身斉家治国平天下、みたいな話につながるんだろうなあと思います。

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でも、そうやって選ばれし学んだ人間、教育されてきた人間が「あいつらは、ずるい!」って言ってしまっているのが、今の世の中でもあるなあと思います。

そして「必死に努力して学んだのだから、良い暮らしや良い仕事、良い想いができて、俺は当然なんだ!」というように主張する。

でも、冷静に考えて、そんなわけがないんですよ。

学ぶ機会が与えられた人間には、学んだ人間としての贈与を受け取る役割がある。

だから、学ぶとは、自らの知的好奇心のように、遊びの延長にあるように語られることが多いですが、「知ってしまった」という感覚のほうが、実は圧倒的に大きいんだと思います。

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もちろん、ここでも何かを学んだからと言って、必ずしもそれを実践する必要や義務はないと思います。

それさえも、完全に個人の自由です。

ただ、学んでしまった以上は、自分の中に常に「気持ち悪さ」というものが絶対に自らの中に少しは残るはずなのです。

だって、もう知ってしまったんだから。

それは以前、ご紹介したことのあるハンナ・アーレントの「なぜ、ひとを殺してはいけないのか?」という問いの話にもつながるかと思います。


「人殺しをした自分とは生きたくない」と、もうひとりの自分自身が乞い願うように、知ってしまったことに対して、それに背いた生き方をしている自分とは生きたくない、ともうひとりの自分が願うようになるはずなんです。

そうしないと、常に漠然とした後ろめたさがつきまとう。

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逆に、利己的に振る舞うひとたちは、知らないのだから利己的に振る舞っているのも当然です。それが動物的な本能であり、まさに無邪気そのものです。

つまり、学んでしまった人間には、必ず知ってしまった以上の「やせ我慢」が求められているんだろうなあと僕は思いますし、それこそが、ノブレス・オブリージュだとも思うんです。

既に「知ってしまった」自分に対して、裏切らずに生きられるかどうか。

知行合一というのは、きっとこういうときに掲げられる言葉なんだろうなあと。

それは、先人たちから「あなたならできる」として、祈りとして、贈与として与えられてしまったわけだから、気づいた時点で、もう既に受け取ってしまっているんです。

だからこそ、学んでしまった人間は、高級な酒や料理にうつつを抜かしていちゃダメだと思うんですよね。

他の誰もやらないなら「仕方ない、おれが、私が、請け負う」という成熟した態度こそがいま本当に大切なんじゃないか。

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一方で、現代の世の中では、その真逆のことが行われてしまっているように僕には見える。

具体的には、「正しい惻隠の情はなんだ!?選手権」みたいなものが、毎日この世の中で行われてしまっている。

普通はこれぐらいするだろうという「普通」という名の、倫理の基準の押しつけ合い。

そして、誰もが納得するような「倫理的な正しさとは一体何か」を、ひたすら毎日ネット上で論破し合っている。そのために、学んで得た知識をひけらかしあっている。

そして、現代の厄介なところはそこに経済合理性も絡んでくることです。

いわゆる、ジャック・アタリがコロナ禍に言及していた「合理的利他主義」のような「自分に経済的な合理性があるから、他者に配慮する」というような、とても変なロジックも生まれてくるわけですよね。

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でも本来、「惻隠の情」というのは、何度も繰り返すけれど、ひとりひとりの自由なんです。そしてそれは徹頭徹尾、自分の内側から立ちあらわれてくるもの。

誰かに強要されることでもない。

あいつらはズルいって言っていても仕方ない。だったら、初めから学ぶなと僕は思う。

今は、学んだ結果として、文句ばっかり言っている人間が本当に多くて、それは教育が万人に開放されたという圧倒的なメリットの裏返しでもあるんだろうなあと。

昔はここが、武士とか貴族とか、ある種そういった社会的に特権的な階級にいる人々だけが得られるような情報だったのに、今は他人を叩くため、復讐するために、学問を学べてしまう。

それが、現代社会が陥ってしまっている大きな落とし穴でもあるなあと思います。

不遇な家庭環境にいる人間が、その不遇さを抜け出して、他者に復讐したいがために、刀を持ってしまったようなもの。

「ペンは剣よりも強し」じゃないですが、学ぶというのは、ある種の劇薬なんだから。刀のように、本来は取り扱い注意の代物なのです。

学べている権利が自己にあることに対して、もっともっと自覚的になったほうがいい。一度、知ってしまうともう知ってしまう前には、戻れない。

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で、だからこそ、お互いがお互いの持ち場でそれぞれの惻隠の情から発せられる「やせ我慢」をし合っている状態を言祝ぐことができる関係性が、いまとっても大事だなあと思います。

この点、やせ我慢というのは、我慢を強いる関係性から生まれてくる我慢じゃない。あくまで自分から能動的に引き受ける態度です。

そんなふうに、共に成熟する仲間をどのように増やしていくことができるのかっていうことが本当に重要なんだと思う。

「なぜわざわざたった1回しかない人生で、やせ我慢なんかしなきゃならんのだ!あいつらはあんなにも人生を謳歌しているのに!俺だって人生を謳歌したい!」という声が聞こえてきそうですが、僕は、間違いなくやせ我慢をしているほうが、生きていて純粋に気持ちがいいと思うんですよね。

言い換えると、それが本当の幸せであるという感覚を抱けるかどうかが本当に重要で。

自分の中で一貫性があること、そんな知行合一からの敬天愛人のような状態なんて他にないですよ。

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喩えるなら、人生を謳歌しているように見えるひとは、親に養われている天真爛漫・無邪気な子どもみたいなもの。

もちろん、それはそれで本当に幸せな状態だと思います。

一方で、本当の幸せとは、その子どもをしっかりと養う両親側になれること、それが本当の幸せであると僕は思います。

だからこそ、それぞれの持場で、お互いにやせ我慢をしているひとたち、そんなひとたちがこころが折れてしまわないようにお互いに目配せをし合って、真摯な態度に賞賛を送り合えるような関係性をここでも増やしていきたい。

そういうひとが増えていくことが、きっと世の中が変わるきっかけになるんだと信じているから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。