最近、友人とお互いに撮ってきた写真についてフィードバックをする試みをしている。
思いがけない視点からの言葉をもらったり、それらに応答することで、自分の中で新たな視点が生まれてきたりして、発見が多い。
自分の中で当然であることは当然なので、自覚がなかったりするのだが、それらを今一度言葉にして書いてみることは、思わぬ次の発見を生むかもしれないと思った。
「写真は非言語の表現だ」と言われたりする。言葉にできないものを撮るのだと。果たしてそうなんだろうか。写真とは、もっとやり取りが生むような媒体である気がする。
なので、撮った1枚の写真をもとに、撮影したときの気持ち、意図、連想したことなどをつらつらと書いてみることにした。続くかわからないけど、とりあえず。
・・・
まず、青い柱の下に秩序立てて集まっているような、飲みかけの缶ビールやジュースのコップが目に入ってきた。
「物」は、広い空間にギュッと集められていると、なんだか人のように、慎ましく存在しているように見えると思った。同時に、これらをこの場所に「捨てた人たち」の存在を、物を通した不在から感じ取ったことに、興味を抱いた。
明らかに「ゴミ」として捨てられている物の集合体だ。なのに、「律儀」に集められているように見えるのは、気のせいだろうか。「ゴミ」と「律儀」という言葉は、関連性が低そうに思えるのに、この場所ではそれが成立している。だからこそ、おもしろく思えて、撮りたくなったのだろう。
たとえば、ゴミ箱に捨てられた物たちは、秩序があるように思える。必要のないものをゴミ箱に入れると、業者が回収してくれる。だからその中に入れておく。ときにはゴミ箱からはみ出していたりするが、とはいえ「ゴミ箱に捨てようとする行為」を達成しようという意思は垣間見える。
だが、ここでは物が並べられている。ゴミをゴミ箱まで持っていくことを諦め、「明確にその辺に捨てる」という意思がある。にもかからず、並べて置いておくという律儀で秩序のある行為をしている。
もし、これらがバラバラに置かれていたり、倒れている物があったりした場合、律儀だとは思わず、むしろゴミとして捨てられている状態として、引っ掛かりはなくなる。物が並べられている状態は、そこに並べた物たちの何らかの意志を感じる。そんざいに投げて捨てたのではなく、"そっと置くように"捨てられた。
「ゴミをその辺に捨てる」という倫理には、乱雑で秩序に反する行為を抑制する部分が含まれていると思う。だとすると、ゴミを捨てるのに秩序があるという状態は、倫理を達成する項目を既に満たしてしまっている状態になるのかもしれない。
あるいは、遊び心の集合体であるだろうか。思い出したのは、「社会運動はどうやって起こすか(デレク・シヴァーズ)」という、TED Talksの動画だった。
ゆったりとして人の流れのなかで、急に踊り出す人がいる。その1人は周囲から嘲笑されている。だが、しばらくすると、もう1人が加わる。その人は最初のフォロワーであり、人を繋ぐ重要な役割を持つ。その人が友達を呼び、さらに1人、2人と加わっていく。そうなると、さらに人は続き、立派なムーブメントとして膨れ上がっていく。
想像するに、最初に柱の下にゴミを置いた誰かは、「ゴミ箱まで持っていくのはめんどうだけど、せめて端っこに寄せておこう」と思った。次に、なんとなく、ゴミを持て余していた人が、「ちょうどいいや」と、便乗してニヤリとそこに置く。そうしていくつかのゴミが集まると、「なんか集まっているし、そこに置こう」という、軽い遊び心でそこにゴミが溜まっていく。
柱に付けられたボックスの上には、缶ビールのゴミが置かれている。ここに置いた人は、完全に遊び心だったんではないかと思った。
結果としては、社会運動でもなんでもなく、ただ秩序だったゴミの集合体が出来上がってはいる。だが、小さな社会運動というのは、観察すれば、どこにでもあるような積み重ねであり、そのきっかけは、意外と軽々とできるような希望のあるものであるかもしれないと思ったりした。
そして、この場所で写真を撮ろうと、マニュアルフォーカスのピントを合わせていると、柱と同じ色のユニフォームを着た人が現れる。
カメラを構える俺を見て、「この人は何を撮っているんだろう」とカメラの先に視線を移す。その瞬間にシャッターを押す。人の視点まで意図したわけではない。だが、カメラを構えている人を見ると、その先に何があるのか知ろうとする人の挙動に、おもしろさを感じた。だからこういう構図になって良かったし、発見があった。
そして、ようやくこの人が現れたことで、見る人は「ここは何かのスタジアムではないか」という予測ができるようになる。繰り返すが、そこまで意図はしていない。意図していたらすごかったよねとか思う。まあ仕方ない。
スペイン北部にVitoria-Gasteizという街があり、Deportivo Alavés(デポルティーボ・アラベス)というサッカークラブがある。滞在中に「せっかくなら試合見に行きたいな」と思ったが、意外とチケットが高くて諦めた。
ふと、「試合中のスタジアムの周辺ってどんな雰囲気なんだろう?」と思い、試合中にスタジアムまで行ってみることにしたのだった。そうして、この場面に出会ったわけだ。意外とぶらぶらしている人がいたり、外から少しだけピッチ上が見える隙間があって、そこからチケットを持たない人たちが観戦していたりして、なかなかおもしろかった。
残念ながら、カメラを構えた視点の先を共有したこの人は、この場面をおもしろがって、写真を撮ることはしなかった。青く小さな社会運動は始まらなかった。思えば、写真スポットと呼ばれる場所は、こうした積み重なりがある上でそういう場所になっていくのであって、ゴミの話や社会運動の話と、仕組みは似ている部分があるのかもしれない。
Olympus XA + Kodak Gold 200