近ごろの生成AIの急速な進化に伴い、僕らのコミュニケーションの形態も大きく変わりつつあるなあと思います。
具体的には、最近明らかに風向きが変わってきたなあと思うのは、ビジネスや公的な場面における形式的なメールのやり取りにおいて、わかりやすく生成AIが、人間と人間の間に介在し始めているというような現象です。
もちろん、このWasei Salonのような親密な場や、友人・知人との間ではAIを介したコミュニケーションはほとんど存在していないとは思っていますが、
しかし、それ以外におけるビジネスの世界や公的な場面など「余人をもっていくらでも"変えられる"関係性」、つまり主に「お金」や「立場」によってのみつながっている関係においては、AIを経由したメッセージのやり取りが急速に増加してきているなと思わされます。
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この現象というのは、相手から届く形式的なメッセージに対して、こちらも負けじとAIを用いて返信するという形で進行していくわけですよね。
そして、このやり取りを行っていると、相手もまたAIを利用していることが手に取るように分かるようになってくる。あるいは、相手自身が、そもそもAI的な思考の持ち主なのかもしれない。それはどっちでも同じことです。
で、このやり取りを繰り返していると、次第に自分たちは「一体、何をやっているのだろう…?」という疑問に直面するなあと思うんです。
AIがあいだに入り、それぞれが雑に投げた言葉をやり取りしているだけではないか、という感覚がフツフツと湧いてきてしまう。
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そして、この疑問は最終的に「そもそも、敬語や丁寧な表現って一体何なのだろう?」という本質的な問いへともつながってくる。
この問いに対する答えを探るうえで、非常に参考になるなと思ったのが、橋本治さんが書かれた『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプリマー新書)です。
この本は、基本的には10代前半の子どもを対象に書かれている本にもかかわらず、「敬語とは何か」その本質を探るうえで、非常に興味深い話が書かれてありました。
特に注目すべきは、この本が敬語を「尊敬」ではなく「距離」の概念として捉えている点がとても印象的だったんですよね。
橋本治さんは、本書の中で以下のように書かれています。
敬語というのは、「人と人とのあいだにある距離」を前提にして使われる言葉なのです。
だから、「その距離を縮めたい」と思ったら、その分だけ、敬語はなくなっていきます。
逆に、「近よってほしくない。距離があった方がいい」と思ったら、敬語は増えていくのです。
敬語というものは、「人と人とのあいだの距離」ということを前提にして考えるとよくわかります。でも、そういうことはあまり言われません。敬語というと、どうしても「尊敬」です。「尊敬」というのも、じつは、「人と人とのあいだにある距離」のひとつなのです。
そう考えればいいのに、そう考えないから、敬語はややこしくなるのです。
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この視点は、いま大人もしっかりと理解しておくべき重要な概念だなあと思います。
敬語を単なる「尊敬」の表現だとしてとらえてしまうから、この相手に敬語を使うべきか否かと、わけわかんない方向に議論が進んでしまう。
でも、人間関係における「距離」を調整するツールとして捉えてみる。そうすることで、これまでとは違った敬語の捉え方ができるようになるし、なぜ使わなければいけないものなのかも自然と見えてくるよなあと感じます。
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そして、いま新しく出てきた生成AIを、その距離感を保つやり取りに介在させることで、人々の間の距離感は適切に保たれていく方向に向かっていくことは、まず間違いありません。
例えば、SNSの投稿だったり、ビジネスメールの作成時だったり、AIが不適切な表現や過度に親密な言葉遣いを発見した瞬間に、それを察知してアラートが鳴り、社会的な摩擦や誤解を減らすことができるのだと思います。
実際、僕自身も昨日のブログ執筆時に、特定の選手について書こうとした際、AIの助言を受けて不要な言及はバッサリと削りました。
自分では特定の個人を批判して書いたつもりもなかったのですが、確かに第三者視点からアラートを出してもらえると、余計なことは書かなくて良かったなあと思わされます。
このように、何かを発信しようとする際にも、AIがアラートをならしてくれるようになれば、世の中の炎上案件みたいなものは確実に減少していくでしょう。
さらに、将来的にはAIが個人のソーシャルグラフさえも完全に理解をして、それに基づいて適切な距離感も提案してくれるようになるのもきっと間違いなくて、これはもう時間の問題だと思います。
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ただし、問題はここからであって、このような生成AIの介在が進むにつれ、「一体自分たちは何をやっているんだ?」という疑問が湧いてくるのも事実だと思います。
言葉を選ばずに言えば、そのような敬語のコミュニケーションそれ自体が、ものすごく「バカバカしく」なってくる可能性があるなあと思うのです。
この「バカバカしさ」について、先ほど紹介した本の中で興味深い例が挙げられています。それは、敬語の変遷に関する話です。
昔はえらい人は「御前」と呼ばれていて、だから「御前様」だったのに、その読み方が変化した「おまえ」が現代においては、一番尊敬を欠いた距離の近い言葉になっている。
つまり、現在においては、「あなた→君→おまえ」の順で相手に対して、尊敬の態度を示していないことになってしまっている逆転現象の不思議について、橋本治さんは以下のように語るのです。
再び本書から引用してみたいと思います。
ふしぎでしょう? 昔は「おまえ→きみ→あなた」の順でえらかったのに、今ではその順序が逆になって、ていねいなのは、「あなた→きみ→おまえ」の順です。なんでこんなふうにひっくり返ってしまったのでしょう?
理由は、ひとつしか考えられません。「あまりにも尊敬の度合が強いと、人はときどき〝バカらしい〟と思ってしまうから」です。そうでもなかったら、最大級のえらさをあらわしていた「御前」が「おまえ」になって、「おまえ呼ばわりするなよ!」なんていう嫌われ方をしてしまうことは起こりません。
「尊敬」の度合なんかぜんぜんない、「あなた(彼方)=あっちのほう」が、「ていねいな二人称」になってしまうのは、「あなた=あっちのほう」に敬語のニュアンスがまったくなかったからとしか、考えられないのです。
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この指摘は本当におもしろいですよね。尊敬を込めたコミュニケーションほどバカバカしくなり、敬語のニュアンスがまったくなかったものが、丁寧な表現に格上げされる。
そして、この説明は、現在の生成AIを介したコミュニケーションにも見事に当てはまる可能性があるなあと思うんですよね。
というか、すでに多くの人が、AIを使ったやり取りに対して、なんともいえない「バカバカしさ」を感じ始めているのではないでしょうか。僕自身は、最近間違いなく感じ始めています。
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で、ここまで書いてきて思い出したのが、先日もご紹介した『宗教のクセ』という本の中で語られていた、死者への対応、その距離感の話なんです。
カンタンにもう一度要約すると、なぜひとは弔うときに、「ありがとう」と死者を弔うのか。それは死者の攻撃性・暴力性を解除しつつ、ちゃんと距離はとっている。相手の存在を認知し、その上で「もう来なくていいです」という含意を伝えようとするときに「ありがとう」という言葉が適切だから、という話でしたよね。
この「ありがとう」と「敬う」例もまた、適切な距離感を保つことの重要性を示していたんだなあと思います。
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儀式的なもの、敬語のような形式的なものをバカにしている人間ほど、粘着質な人間や霊を含めた「他者」に、まとわりつかれてしまう。
相手に距離感を誤解させてしまうからそうなるわけです。
そして、そういうひとほど「なんで俺ばかりが?」と宣うわけなんですが、それは完全に身から出たサビでもあるわけですよね。
というか、距離感を間違ってしまうと、そのようなことが起きるとわかっているから、先人たちは、敬語や儀式を重視して、距離感を適切に保とうと必死に努力してきた。
それこそが先人たちの知恵だった。そんあ生きる知恵を蔑ろにすると、そのような結界を自らには張っていないことになるわけだから、他者から呪われてしまうのも、当然のことだと思います。
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で、そこに突如現れた生成AIの登場により「距離感の構築の仕方」が音を立てながら、いま大きく変わってきているなあと思います。
距離感の構築の仕方が、まるっきり変わってきている。
このときに一体何が起きてくるのか。それは誰にも予測できないですが、「御前様」が、「おまえ」という言葉に変化したように、ここから大きな変化が起きてくるのかもしれないなあと思うわけです。
そして、この構造的な変化が起きたときに、社会に与える影響とは一体どんなものなのか。
そこに僕自身がワクワクしてしまうし、なんだか非常に興味深い観点だなあと思うわけです。
少なくとも、このようなコミュニケーションが当たり前になってくれば、人々が感じる「バカバカしさ」によって、何かが大きく変わってくることは、もう間違いないだろうなあと思います。
何か明確な結論めいたものがあるわけではないですが、今日のお話が「敬語とは何か」そして、それをAIに委託したときに、世の中がどのような方向に進むのか、そんなことを考えるきっかけになっていたら幸いです。