今年のオリンピックにおいて、久しぶりに日本男子バスケ代表の試合を全試合観て、ファウルについて考えさせらる機会が、とても多かったなあと思います。

特にフランス代表との試合においては、八村塁選手がアンスポーツマンライクファウル2回取られて退場してしまったり、最後の最後で川村選手がファールを取られて4点プレーを相手に与えてしまったりして、結果的に惜しくも負けてしまったことなどは、世間的にも大きく報じられましたよね。

この試合を観ていた視聴者たちが、試合後にファウルの是非について騒ぎ立てる様子も、非常に印象的だった。

結果的に、SNS上で特定のレフリーに対する誹謗中傷なども重なって、本当にファウルに関する論点が浮き彫りになっていたなあと思います。

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あとここからの話は、完全に個人的な印象論に過ぎない話であって、多分にバイアスが含む話ではあるのですが、各試合ごとに「ファウルを使う」「ファウルがまだ残っている」「ファウルで止めたい」という実況や解説者の表現が、昔に比べて本当に一気に増えたなあということ。

「ファウルは最大限活用すべきもの」という暗黙の前提となっていることに、地味に結構驚きました。

この点、僕らが学生時代のころは、ファウルは基本的にはどんな場面においても極力してはいけないものという認識があったような気がします。

もちろん、それは当時においてもあくまで「建前」であって、本音部分で言えば、常にチームファウルと個人ファウルの残り数を計算し、その中で結果が最大化するような目算は、選手も監督も考えていたことは確かだと思います。

でも、そのときに残りのファウルを効率よく活用し、勝ちに行こうということが、全面的に語られることはなかった気がします。

いわゆるファウルゲームの論理も、最終クウォーターである第4Qだけで語られるものだったはず。でも現代は、第1Qからその本音が、あけっぴろげに語られるようになっていたなあと。

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じゃあこの変化には一体どんな思考が介在しているのか。

やはりそれは「ハック思考」なのだと思います。バスケにおいても「ルール内におけるハック思考」みたいなものを、如実に感じさせられるなと思いました。

もちろんそこには、バスケットボールという競技自体が、高度な戦術や戦略を用いたスポーツに変わってきているという証拠でもあると思うのだけれども、でもやっぱりこのファウルに対する認識というか、そもそもの前提条件の違い自体が、なんだか非常に興味深いなあと思うのです。

これは、現代社会の違和感についても、ダイレクトに直結するような話でもある。

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今の若い子たちが、部活動などで、この前提(ファウルはルール内で有効的に最大限活用するもの)ということを学んで社会に出てくるとすれば、そりゃあ倫理観や道徳観を一旦差し置いてでも、最大限の価値を生み出す行動に走るに決まっている。

時にはグレーゾーンにも踏み込んでくるでしょう。

そうすることで結果的に勝てるんだからいいだろ、って話だと思うんだけれども、なんだか結構モヤモヤするなあと思うのが、正直なところです。

スポーツマンシップの概念も、時代とともに移り変わるものなんだなあと強く感じました。

これは10代の頃には全く気付けなかったこと。スポーツマンシップというのは普遍的な価値観だと勝手に信じ込んでいたんだなと思います。

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で、ここまでは昨日サロン内のタイムラインにも書いていた話であり、その後に思い出したのは、内田樹さんが以前語られていた「ファールと差別」の話なんです。

「差別はよろしくない。でも、根絶することはできない。」と内田さんは語ります。

だから「差別というのは、原理問題ではなく、程度問題であるのだ」と。

ゆえに、「ちょっとずつ抑制する」ことを通じて、いつか差別をする衝動そのものが悪さをなさない程度にまで、縮む日を僕らは待つしかない。

そのために必要な態度は、ある程度までの差別は見逃すか、受忍程度を超えたものについてはとりあえず注意を促し、それでも矯正されないときは処罰する。私たちにはそれしかできないのだ、と。

そして内田さんは、この現実社会の「差別」を「ファール」と読み替えると「これはあらゆるボールゲームの審判たちがしていることと同じである」と語るのです。

初めてこの視点を読んだ時に、僕はものすごくハッとさせられました。

以下は内田樹さんの新刊『小田嶋隆と対話する』という書籍からの引用となります。

彼ら(球技の審判)がしているのは「程度差のみきわめ」だけである。すべてのファールを根絶することでもないし、すべてのファールを見逃すことでもない。審判たちはその「あわい」に立つことしかできない。
「すべてのファールは等しく悪であり、処罰の対象である」と考える審判がいたら、たちまちほとんどのプレイヤーが退場処分になって、ゲームは成立しなくなるだろう。だからといって、反対方向の極端に走って、「どうせすべてのファールを根絶することはできないので、ファールはやりたい放題にしよう」ということになったら、今度は卑劣で暴力的なファールのせいでプレイヤーは次々に傷つき、やはりゲームが成立しなくなる。この理屈なら誰でもわかると思う。
ゲームを成立させるためには、ある程度までのファールは見逃すけれども、限度を超えたら処罰するという程度差のみきわめが必要である。みきわめが適切であれば、プレイヤーも観客も納得する。審判の仕事はボールゲームがもたらす快楽を最大化することである。


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この話は、とてもわかりやすいたとえ話ですよね。

そして、「差別はよくない」と「すべての差別を根絶することはできない」という命題は別に矛盾はしていない、私たちの社会の「暮らしやすさ」が最大化するように「ジャッジ」できるように努力すればよいのである、と語るのです。

この論理の運び方にはとても共感できるし、本当にそのとおりだなあと思う一方で、まさにそのボールゲームの世界でいま何が起きているのかといえば、「許された程度問題の中で最大限にファールをして、何が何でも勝利を勝ち取ろうとする姿」なんですよね。

なんだか、その主従が逆転してしまっているような印象を受けます。

受忍限度内で最大限のルールを犯して、ルールの中で許されている範囲でそのハック思考自体は、決して何も間違っていないのかもしれない。

でも、そのような現代風の考え方は「子ども」の思考だなと僕は思ってしまいます。

というか、そのような態度で行われる試合が、社会に対して間接的に与える影響に対してあまりにも無自覚だなと思ってしまう。

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そもそも、本来はより良い社会をつくるための擬似空間、疑似体験がスポーツの世界だったはずです。

そして、ここで重要なのは、スポーツと社会の関係が双方向的であるという点なんですよね。具体的には、社会の価値観がスポーツに反映される一方で、スポーツで学んだ価値観が社会に持ち込まれるわけです。

つまり、これは「にわとりと卵」のような関係であり、どちらが先かを問うことにはあまり意味はない。

問題は、この相互作用が悪循環を生み出してしまっている可能性があるということなんです。社会のハック思考がスポーツに反映され、そのスポーツを通じて育った若者たちが再び社会にでて仕事をしていく。

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この過程の中で、倫理観や道徳観が徐々に浸食されていく。過去に何度も語ってきましたが、ハック思考の問題点は、その「無邪気さ」にあると思います。

ルールの範囲内であれば、何をしても良いという考え方は、一見合理的に見えますが、実際には非常に短絡的。

例えば、最近の東京都知事選のポスター問題なんかもそうでしたよね。これは、選挙のルールの「抜け穴」を利用した行為でしたが、多くの人々の倫理観には反するものでした。

そして、このような行為が繰り返されると、最終的にはルールそれ自体を厳しくするしかなくなるわけです。

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つまり、スポーツマンシップとは、単なる「フェアプレー」以上の意味を持つわけです。

それは、競技の精神を尊重し、相手選手を敬い、ルールの「精神」を守るという姿勢であり、その場面ごとにおける、選手ひとりひとりの矜持の問題。

僕は、このスポーツマンシップの「建前」をちゃんと持ち続けることが、何よりも重要だと考えています。

繰り返しますが、本音では様々な思いがあっても構わない。勝てたら、何をしてもいいと思う「がむしゃらさ」も勝負の世界では時に重要ですからね。

ただし、少なくともその建前を保ち続けることで、倫理観や道徳観の基準を保つことができるのではないかと思うのです。

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今回の代表戦において、必ず一礼してからコートに入り、極力ファールを避けようとする姿勢、そんな風にまるで幕末の武士のように戦う山口県出身の河村勇輝選手は、本当に印象的でした。

どう考えても、自分は相手の選手に対しては一切触っていないのに、それでファウルを取られて負けてしまったときも、試合が終わったあとのインタビューでは、粛々とその審判の判断を尊重しつつ、自分の弱さとして振り返るその様子。

僕は、そんな河村勇輝選手のような姿勢を強く支持したいなあと思います。

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そのような姿勢がきっと巡り巡って、社会においても良い影響を与えていくはずだからです。そしてひとりひとりの倫理観や道徳観を養っていく礎にもつながっていくと思うから。

もちろん、これは答えのない問題です。原理問題ではなく、程度問題であるということはそういうことだと思います。

ただ、「ハック思考」を認める限り、差別もファールも、この世からはなくならない。

ルールの穴をかいくぐって、それらはいつまでも生じ続ける。そして、ルールを強化しようという方向に世論が流れてしまう。結果、自分たちの首を、自分たちの手で締めることになっていく。

だからこそ、ひとりひとりが考える必要があるのだと思います。

程度問題は、いつだって綱引きのようなものだから。

この綱引きは一人ひとりの倫理観や道徳観の浮き沈みによって    いかようにでも変わりえることに対して本当に強く自覚的でありたい。

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成功や勝利という結果を重視するあまり、あまりにも社会全体を通してハック思考に流れすぎている気がしています。

内田さんは先ほどの文章の続きにおいて以下のようにも語ります。

「人間が戦争をするのは仕方がない。でも、その時でも、自分が銃口を向けている人間が戦闘員か非戦闘員か判定するために一瞬でも『ためらう』ということは必要なのだ。戦争そのものが非人道的なのに、そこで人道的にふるまうなんてナンセンスだと思う人は、単純な『原理』を語っているにすぎない。」


もっと、個々人のなかにあるそれぞれの「ためらい」の感覚を大事にしていきたい。それを考える契機を、この場においても丁寧につくりだしていきたいなあと考えている今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。