現代は、リベラリズムの正しすぎた揺り戻し、そんなバックラッシュが目立っているような時代です。
過去に何度も似たような話は書いてきましたし、それを象徴するのが、今回の衆議院選挙だったというのは、有識者のみなさんの総括に共通する点です。
みなさんも既に飽きるほどに見聞きしている話だと思います。
「正しすぎるがゆえに、正しくない」と思われる感情が、ついに飽和点に達して、リベラリズムが見事に敗退してしまったのだと。
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この点、この「正しすぎるがゆえに正しくない」嫌厭感の感覚というのは、先日もご紹介した養老孟司さんと内田樹さんの対談本『日本人が立ち返る場所』という本の中で語られていました。
少し本書から引用してみます。以下はすべて内田樹さんの発言です。
フェミニズムはある領域については見事に当てはまるのだけれど、それを適用しない方がいい領域があるから、そこには手を出さない方がいいですよと僕は主張したのです。
せっかくすばらしい理論的利器を創り出したわけですから、それをずっと使い続けて欲しい。でも、過剰適用すると、「正し過ぎる」ことに対する嫌厭感が蓄積して、やがて「正しさ」そのものが否定されてしまう。正し過ぎることは正しさの実現をむしろ阻害することがある。だから、正しさの適用を手控えましょう。そういう変なことをずっと主張してきたんですけれど、こんな中途半端な主張は誰も相手にしてくれなかった。
このことを語る内田樹さんが、なぜリベラリズムの親玉のようにしてやり玉に挙げられて、大炎上し続けているのか、そこも大いに疑問ですが、一旦横においておいて、この嫌厭感の感覚は誰もが共感できるところだと思います。
そして今、倫理的な「正しさ」よりも、ある種の「正直さ」が尊ばれる世の中になってきた。
具体的には、露悪的なほうに賛同が集まる。そのほうが「正直に見える」からです。
「剥き出しの欲望を隠さないほうがリアルだ。綺麗事より、毒のある本音のほうが、信用できる」と。
そんな空気が、政治でも、メディアでも、そしてSNSでもじわじわと、そして着実に広がりつつあると思います。
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で、このあたりの視点に関しては、思想史家・先崎彰容さんの時代診察がとても参考になるなと思います。
先崎彰容さんの新刊『知性の復権』という本から少し引用してみます。
性的なものと暴力的なものが、せり出してくるのはこの時です。人間の最も原始的で根本的な興味関心は、性であり、暴力だからです。 日常をかき乱し、非日常の世界を垣間見せてくれる「性」と「暴力」が、最も簡単に他者からの視線を調達できる。 元手がいらず、炎上しやすく、関心をひきやすい。こうして、SNS上で手っ取り早く再生回数を稼ぐために、自分の身体や恥部をさらしてみたり、警察官に食ってかかるような映像が氾濫することになります。タイトルは攻撃的な方がクリックされやすく、自然、口調も荒々しくなる。技術や工夫一切なしの、赤裸々で、生々しい暴露系の映像が増える。
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また、このブログの中でずっと語ってきた、やる偽善に対抗する「正直な悪」が求められる状況も、まったく同じ話。
今後は「正直さ」に揺り戻しがやってくることはもはや必定。
それがアメリカだけでなく、日本でも確定したことが、先日の選挙における自民党・高市政権圧勝だったのだと感じます。
「力だ、経済力だ、影響力だ」そんなふうに重厚長大、剥き出しの欲望によって集められた権力こそが、物を言う時代になる。
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で、このあたりから今日の僕の意見に入ってくるのですが、
「正直さ」のほうが勝つことはもはや自明だけれど、でも、実際のところ純粋に嫌じゃない?って思うのです。
僕は、全然それを求めていないなあと、正直に感じるんですよね。
というか、最近のこの世相に対して、僕はなんだか心底、嫌気がさしている。そんな自分にふと気付きました。
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リベラルが「正しすぎる」ことを言ってきたこともそうだし、いま、その反動を受けて「反・ポリコレ棒」みたいなものを振り回す側の人々にも、それを強く感じる。
特に、選挙後の経済界や在野の研究者、ジャーナリストの方たちが、なんだか鬼の首を取ったかのように言い方に対してリベラル叩きをしていることに、僕はものすごく強い違和感がある。
確かに、彼ら・彼女らの話はおっしゃるとおりで、何も間違っていない。
ただ、間違っていないからこそ、なんというか聴いていて、うんざりしてしまう。
正直に言うと「うるせえよ」って思ってしまう。
結局同じ穴のムジナであり、やっていること一緒じゃん、と。
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この対立の不毛な点は、「どちらも他者に対して不寛容である」という点だと思います。
リベラル側は「正しくない者」を排除し、保守は「綺麗事を言う者」を批判する。
そして、そんな剥き出しの欲望によって集めた権力側がまた好き勝手やっていけば、「流石にそれは…」となって、また揺り戻しが起こることも必定。
そするえば、「ポリコレ棒」だってまた効力を持つわけですよね。
その時というのは、今の「反・ポリコレ棒」で痛めつけられてもいるわけだから、余計に強い反動で更に強力な「ポリコレ棒」にもなる。
そうなると、また揺り戻しが起きて、「正しすぎる」ことに対して、もっともっと庶民や大衆のあいだで嫌厭感が広がることも間違いないわけです。振り子は右左にドンドン大きく振れる。
先日配信されていたニコニコ動画のひろゆきさんと東浩紀さんの対談で、ポル・ポト政権や文化大革命の話が出ていたけれど、結果的に、文化大革命みたいな様相にもなっていく。
「知性こそが敵だ!」となるに決まっています。というか既になりつつある。
その負のスパイラルが起きることがあまりにも明白過ぎて、余計に気持ちが沈んでしまう…。
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じゃあ一体どうすればいいのか。
いまの世の中にほんとうに足りないものとは、一体何なのか。
ここからはものすごく変な角度から論じますが、落語のような世界観だなと思います。
つまり、笑いであり、ユーモア、日本的な愚かさ、です。
以前もご紹介した山田洋次監督の『映画をつくる』という本の中に、作家・星新一が語った落語の話が出てきます。
こちらが非常に参考になる。少し本書から引用してみたいと思います。
星新一さんが「落語という芸術は、文学と違ってひとりよがりの解釈が許されない芸術である。だから落語批評家というのは存在せず、それはつねに大衆であった」という意味のことを書かれていました。私は、そのことは映画についても基本的にはいえるのではないかと思います。大衆の眼が高く、良い批評家、つまり見巧者、聞巧者が大勢いる時代には、落語家の質も当然高かったであろうと思われる。そしてその関係は落語と同じ大衆的な芸術である映画についてもまったく同じではないか。
これはものすごく深く共感するところ。
落語の登場人物は、「正しくない」人々が大半なわけですよね。
怠け者だったり、見栄っ張りだったり、欲深かったり。
でも落語は、それを「正そう」とはしない。かといって「剥き出しの悪」を推奨するわけでもない。
ただただ、「人間だもの、しょうがないよね」と笑いに変えて、空中に煙のように昇華させてしまう。
星新一はまた別の箇所で、「人間にはつねに毒があるが、その毒を笑いで吹き飛ばしているところに落語の健康さがある。人間、誰でも毒をもって生きていて、その毒を処理できなくて困っている。そうしたときに落語を聞くと、その毒がパッと笑いで吹き飛ばされる。だから落語を愛する庶民は健康なのだ」とも語ったそうです。
この無力化する力、雲散霧消させる力を持つ、そんな第三極が必要なんじゃないか、ということが今日の僕の主張です。
笑いやユーモアが持つ健やかさが、大真面目にいま本当に大事な気がしている。
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そして、その系譜の上にいるのが、もちろん寅さんです。
ギスギスした雰囲気に、風穴を開ける。それが風天(フーテン)の役割。
淀む空気のなかに、スーっと風が吹き抜けていくような感覚。
僕は、寅さんのそんな「風天」の感覚、あの人情味を大衆単位でどうやって再び取り戻すのかが、本当に大事な観点だなと感じます。
逆に言えば、今はここがスコンと欠落していて存在していない。
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きっと、昨年末から今年にかけて、僕が無意識に寅さんを観始めてしまった理由はここにあるんだろうなと、今振り返ってみて、強くそう思います。
寅さんの映画自体も、1969年という学生運動真っ盛りのタイミングで世に出てきたことも、決して偶然ではなかったんだろうなと。
偽善(インテリ)も違うし、正直で剥き出しの欲望(政治・経済)も違う。
もちろん先崎彰容さんの語るような「知性の復権」も大切だと思いつつ、それだけだとドンドン対立が深まって煮詰まってしまうだけ。余計にギスギスしてしまう。
だとしたら、そんな「ロゴス」と「パトス」を繋ぐ、架け橋としての「ユーモア」が必要なんだろうなと。
「正しさ(ロゴス)」が行き過ぎれば独善になるわけですし、「感情・欲望(パトス)」が暴走すれば、野蛮になってしまうわけですから。
そのあいだを本当の意味で架橋をし、調和的感覚を生み出してくれるのが「ユーモア」であり、ある種の「愚かさ」でもある。
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ここまで考えてきた時に初めて「ユーモア」の価値が、真の意味で理解できたような気がしています。
正直、笑いなんて、この世には不要だと思っていた。それこそ不要不急で、完全に趣味の領域のものだと思っていた。
でも、違った。
なんだったら、「笑い」こそ一番必要な第三極な気がします。
世の中に、古くから「渡世人」というひとたちが存在する本当の意味、古事記の中にも「天岩戸隠れ」で笑いこそが重要だったように。
つまり、この三つ巴こそが大切で、それぞれに拮抗していることが本当に大事だと思います。(古事記で言えば、天照大神、スサノオ、そしてアメノウズメの踊りと笑い)
3つでガス抜きし合いながら、誤魔化し誤魔化し進んでいくこと。
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なにはともあれ、少なくとも、そんな感覚を大事にする別世をしっかりと自分たちの間だけでもつくり出していきたい。
今ある古いものをしっかりと大切に利活用しながら、ユーモアを忘れずにいたい。
ギスギスすればするほど、対立が深まることは自明だからこそ、右左や上下の対立とはまったく異なる、第3局としての「笑い」や「ユーモア」「愚かさ」を大事にしたい。
そんな真の意味での芸事が、現代に必要な処方箋、調和的感覚のような気がしています。
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そしてこのユーモアこそ、本来の「宗教」にもつながっていく話なんだろうなあと思います。しかも大衆のための宗教として、です。
最近『寅さんとイエス』という、寅さんとイエス・キリストの共通点を探るような本を読み終えて、本当に強くそう感じました。
この点については、また改めて別の機会に論じてみたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
